吉川『三国志』の考察 第087話「丞相旗(じょうしょうき)」

曹操(そうそう)は河北(かほく)の袁紹(えんしょう)との決戦に臨むべく、自ら20万の大軍をひきいて許都(きょと)を発つ。

さらにその際、劉岱(りゅうたい)と王忠(おうちゅう)に5万の兵を分け与えて徐州(じょしゅう)の劉備(りゅうび)に当たらせるが、ふたりには丞相旗(じょうしょうき)も授け、この旗を掲げることで曹操自身が中軍にいるように見せかけた。

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第087話の展開とポイント

(01)許都 丞相府

このころ北海太守(ほっかいたいしゅ)の孔融(こうゆう)は、将軍に任ぜられ都に逗留(とうりゅう)していた。

孔融は、河北の大軍が黎陽(れいよう)まで進出したことを聞き、すぐに丞相府に駆けつけ曹操に直言する。

それは、袁紹とは軽々しく戦えない。多少は彼の条件を容れても、対策を他日に期して和睦を求めるのが万全であるというものだった。

曹操は是とも非とも答えず、とにかく諸人に問うてみようと言い、この日の評議に孔融も列席するよう頼む。そして諸将を集め、袁紹と和睦すべきか、決戦すべきか、忌憚(きたん)のない意見を求めた。

まず荀彧(じゅんいく)が、袁紹を旧勢力の代表者と評し、一戦のうちに討ち破るべきだと述べる。この意見に孔融が異を唱え、袁紹の持つ国力や配下の陣容を軽視するわけにはいかないと述べる。

すると荀彧は袁紹の性格や度量に触れたうえ、その配下の田豊(でんほう)・審配(しんぱい)・逢紀(ほうき)・顔良(がんりょう)・文醜(ぶんしゅう)の名を挙げ、それぞれの欠点を指摘する。

曹操は黙然とやり取りを聞いていたが、静かに口を開き決戦の断を下す。その夜の許都は真っ赤で、前後両営の官軍20万は夜が明けても陸続と絶えず、黎陽を目指し発っていく。

曹操は自ら大軍を統率して出陣すべく、武装したまま早朝に参内し、宮門からすぐ馬に乗った。その際、劉岱と王忠に5万の兵を分け与え、徐州へ向かい劉備に当たるよう命ずる。

さらにふたりに丞相旗を授けると、これを中軍に掲げ、徐州へは曹操自身が向かっているように見せかけて戦えと指示した。

『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第22回)では、劉岱と王忠に付けた5万の軍勢のほかに、曹操自身が20万の大軍をひきいて黎陽へ進撃することになっていた。

程昱(ていいく)は、劉備の相手として劉岱と王忠のふたりでは知力が足りないと言い、誰かしかるべき大将をもうひとり加えたらどうかと勧める。

曹操は丞相旗を与えた意図を話し、劉備が出てくる前に袁紹を破り、黎陽から勝ちに乗って徐州へ迂回(うかい)するつもりだと言い、豪笑。程昱はその知謀に伏し、丞相に対して滅多に献言はできないと、ひとり自己を戒めた。

(02)黎陽

曹操と袁紹の対陣は思いのほか長期になり、80余里を隔てたまま互いに守るのみで、(建安〈けんあん〉4〈199〉年の)8月から10月までどちらからも積極的に出なかった。

曹操が細作(さいさく。間者)を放って敵情を探ると、黎陽到着後に逢紀が病み、そのためもっぱら審配が指揮を執っていたが、日ごろから審配と不和な沮授(そじゅ)が、事ごとに彼の命令を用いないらしいことがわかる。

この情報を得た曹操は、いずれ袁紹軍で内変が起こるかもしれないと考え、一軍をひきいて許都へ帰った。

後には臧覇(ぞうは。臧霸)・李典(りてん)・于禁(うきん)などの諸将が留まり、曹仁(そうじん)を総大将として、青州(せいしゅう)と徐州の境から官渡(かんと)の難所に至るまでの膨大な陣地戦は、そのまま一兵の手も緩めなかった。

井波『三国志演義(2)』(第22回)では、曹操は臧霸に命じて青州と徐州を守備させ、于禁と李典を黄河(こうが)の岸に駐屯させ、曹仁に大軍をひきいて官渡に駐留させたうえで、自ら一軍をひきいて許都に帰還した。

管理人「かぶらがわ」より

黎陽で対峙(たいじ)した曹操と袁紹でしたが、大規模な戦いには発展しませんでした。ここであっさり帰るところが曹操らしい……。でも、なぜかそのまま徐州へは行かず、本当に許都へ帰ってしまうのですよね。

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