吉川『三国志』の考察 第113話「孫権立つ(そんけんたつ)」

于吉(うきつ)を処刑した後、孫策(そんさく)は夢にまでその姿を見るようになる。母に懇願された孫策は玉清観(ぎょくせいかん)へ足を運ぶが、そこでも于吉の気配を感じてひどく取り乱す。

結局、孫策は一時持ち直した体調をすっかり崩し、まだ19歳の弟の孫権(そんけん)に後を託して無念の最期を遂げた。

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第113話の展開とポイント

(01)呉(ご。呉会〈ごかい〉)の本城

真夜中のもう四更(午前2時前後)に近いころ、寝殿の帳裡(ちょうり)深くで続けざまに絶叫が漏れた。すさまじい物音もする。

『完訳 三国志』(小川環樹〈おがわ・たまき〉、金田純一郎〈かねだ・じゅんいちろう〉訳 岩波文庫)の訳注によると、「(呉会は)地名。両説あって、呉郡すなわち今の蘇州(そしゅう)を指すという説(『通鑑〈つがん〉』巻65、建安12年条、胡三省〈こさんせい〉の注)と、呉郡と会稽郡(かいけいぐん)の二郡を指すとの説(清〈しん〉の銭大昕〈せんたいきん〉の説、『通鑑注弁正』に見える)」があるという。また「ここ(『三国志演義』〈第29回〉)は前の説によって解すべきである」ともいう。

典医(てんい)や武士が駆けつけると、孫策は牀(しょう。寝台)を離れて床の上にうつ伏していた。手には鞘(さや)を払った剣を持っている。その前にある錦の垂帳はズタズタに斬り裂かれていた。

宿直(とのい)の武士が抱えて牀に移し、典医が薬を与えると孫策は目を見開いたが、昼間とはまるで眸(ひとみ)の光が違っていた。夜が明けると昏々(こんこん)と眠りに落ち、日が高くなったころ目を覚まし平常に返ってきた。

夫人とともに孫策の見舞いに来た母が、于吉を殺したことをとがめる。そして今日から祭堂に籠もって仙霊に懺悔(ざんげ)し、7日の間、善事を修行するよう諭す。

『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第29回)では、孫策のほうが病軀(びょうく)を押して母のご機嫌伺いに行ったとある。

それでも孫策は哄笑(こうしょう)するばかりで、まったく気にかける様子を見せない。やむなく母と夫人は自分たちが代わって修法の室に籠もり、7日の間、潔斎して祈りを修めた。

修法の解釈が難しかった。ここでは「しゅうほう」と読み、正しい道を習い修めることという解釈ではなく、「ずほう」と読み、密教で加持祈とうを行うことと解釈したほうがよさそうだが……。ただ「ずほう」は仏教用語なので、以下に(道教寺院の)玉清観が登場していることを考えると、吉川先生の意図がイマイチつかみきれなかった。

井波『三国志演義(2)』(第29回)では、孫策の母の呉太夫人(ごたいふじん)が玉清観へ人を遣り、お祓(はら)いをさせたとある。

けれどその効もなく、毎夜四更のころになると孫策の寝殿には怪異なる絶叫が流れた。孫策は目に見えて痩せ、昼間も疲れて眠りに落ちている日が多くなった。

再び母が枕元に来て、玉清観へお参りに行ってほしいと頼むように言った。孫策も初めは寺院に用はないと言っていたが、母と夫人が泣いて諫めるので車の用意を命じ、道士院の玉清観へ赴いた。

(02)玉清観

国主の参詣を喜び、道主以下が大勢して出迎え、修法の堂へと導く。孫策は気の進まない顔をしていたが、道主に促されると香を焚いた。

だが何を見たのか、とたんに帯びていた短剣を投げつける。短剣は侍臣のひとりに突き刺さり、異様な絶叫が堂に籠もった。縷々(るる)と上る香の煙の中に于吉の姿が見えたのだった。

井波『三国志演義(2)』(第29回)では、このとき息絶えた者が先日、(孫策の命により)于吉を手に掛けた兵士だったとある。

侍臣は即死しているのに、なお孫策には何か見えているらしく、祭壇を蹴飛ばしたり道士を投げたりして暴れ狂う。

この後はいつものように疲れきって、眠るがごとく大息をついていたが、我に返ると急に玉清観の山門から出ていった。

(03)呉(呉会)の本城

帰路でも孫策は、路傍沿いについてくる于吉を見る。彼は叫んで簾(れん)を斬り破り、車から落ちた。

そのうえ城門を入るときにも狂いだす。瑠璃瓦(るりがわら)の楼門の屋根を指さし、そこにいる于吉を射止めよ、槍(やり)を投げよと、まるで陣頭へ出たように下知してやまない。

(04)本城の城外

ついに孫策は城中では眠れないと言いだし、城外に野陣を張り、3万の精兵が帷幕(いばく。作戦計画を立てる場所、軍営の中枢部)を巡って警備に就いた。

井波『三国志演義(2)』(第29回)では城外の陣に孫策が泊まったのはひと晩だけで、翌日には城内の屋敷に戻っている。吉川『三国志』では孫策が最期を迎えたのが城外の陣中だったのか、それとも城内に戻ったということなのかがわかりにくい。

それでも于吉は毎夜、枕頭(ちんとう)に立つらしく、みな孫策の形容が変わってきたことに驚いた。孫策はひとり鏡を取り寄せ自分の容貌を眺めていたが、愕然(がくぜん)と鏡を投げ打つ。

「妖魔め!」と剣を払い、虚空を斬ること十数遍、ひと声うめき悶絶(もんぜつ)。典医が診ると、せっかく一時は治っていた金瘡(きんそう。刀傷や矢傷)が破れ、全身の古傷から出血していた。

もう名医の華陀(かだ。華佗)の力も及ばなくなり、ある日、孫策は夫人を招くと、張昭(ちょうしょう)らをここへ呼び集めるよう告げる。

張昭をはじめ譜代の重臣や大将たちが城中から集まってくると、孫策は、自分亡き後は弟の孫権を助けてほしいと言う。

そして孫権には、内事は何事も張昭に諮るように、外事の難局に遭った場合は周瑜(しゅうゆ)に問うようにと伝えたうえ、呉の印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)を手ずから譲った。

ここで初めて孫策の妻が喬氏(きょうし。大喬〈たいきょう。大橋〉)だとわかる。また、喬氏の妹(小喬〈しょうきょう。小橋〉)が周瑜に嫁いでいることもわかる。

孫策は妻の喬氏に別れを告げ、幼少の妹や弟たちを近くに招き寄せると、これからはみな孫権を柱と頼み、慈母を巡って兄弟相背くようなことをしてくれるなと戒め、言い終わると忽然(こつぜん)と息絶えた。

孫策、実に27歳。江東(こうとう)の小覇王がこれほど早くに夭折(ようせつ)しようとは、誰も予測していなかったことだった。印綬を受けて呉の主となった孫権は、このときまだ19歳だった。

孫策の享年については前の第112話(01)を参照。なお井波『三国志演義(2)』(第29回)では26歳となっており、史実とも合っている。

この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「覇王は、楚漢(そかん)戦争において高祖(こうそ)劉邦(りゅうほう)と争い、西楚(せいそ)の覇王と称された項羽(こうう)のこと。(小覇王は)出身をともにする覇王項羽に次ぐものという意味」とある。

孫権は史実でも光和(こうわ)5(182)年生まれなので、このとき(建安〈けんあん〉5〈200〉年)19歳で計算が合う。

孫権の下にも幼弟がたくさんいた。かつて呉に使いに来た漢(かん)の劉琬(りゅうえん)は、よく骨相を観る人だった。その劉琬がこう言ったことがある。

「孫家の兄弟はいずれも才能はあるが、どれも天禄を全うして終わることができない。ただ末弟の孫仲謀(そんちゅうぼう。仲謀は孫権のあざな)だけは異相である。おそらく、孫家を保って寿命長久なのはあの児(こ)だろう」

(05)呉(呉会)の本城

呉は国中が喪に服す。孫策の葬儀委員長の任には孫権の叔父の孫静(そんせい)があたり、大葬の式は7日間にわたって執り行われた。

孫権は喪に籠もって深く兄の死を悼み、ともすれば泣いてばかりいる。そのような姿を見るたび張昭は励まし続けた。

巴丘(はきゅう)にいた周瑜が夜を日に継いで呉郡へ駆けつける。孫策の母も未亡人も周瑜を見ると涙を新たにし、故人の遺託をこまごまと伝えた。

周瑜は孫策の霊壇に向かって拝伏し、その遺言に沿い、知己の恩に報いることを誓う。そのあと孫権の部屋に入り、ふたりきりで話し合った。

ここで周瑜は、東城(とうじょう)の郊外に住んでいるという魯粛(ろしゅく)の名を挙げ、ぜひ招くよう勧める。孫権も同意し、周瑜に説得を頼む。

井波『三国志演義(2)』(第29回)では、魯粛は曲阿(きょくあ)に住んでいたが、このころ祖母の葬儀のため(故郷の)東城へ帰っていたとある。

(06)東城の郊外 魯粛邸

翌日、周瑜は東城へ向かう。魯粛の屋敷を訪ねるときはわざと供を連れず、ただ一騎で門前に立った。そして魯粛と会い、孫権への仕官を求める。

話を聴いた魯粛は、巣湖(そうこ)の鄭宝(ていほう)への仕官を勧める劉子揚(りゅうしよう。子揚は劉曄〈りゅうよう〉のあざな)の誘いを断り、孫権に仕えることを承諾した。ただちに周瑜は駒を並べて呉郡に帰り、魯粛を孫権にまみえさせた。

劉子揚(劉曄)と魯粛が親しい友人関係だったことは、『三国志』(呉書〈ごしょ〉・魯粛伝)に見える。ただ吉川『三国志』では先の第43話(03)で、また『三国志演義』では第10回で、すでに劉曄が曹操(そうそう)に仕えていることになっていた。そのためここでの劉子揚には劉曄と別人の観がある。

(07)呉(呉会)の本城

孫権は魯粛を迎えて以来、喪室の感傷を一擲(いってき)して政務を見るようになり、軍事にも熱心に、明け暮れ彼の卓見を叩いた。

ある日はふたりだけで酒を飲み、臥(ふ)すにも床をひとつにしながら、夜半にまた燭(しょく)を掲げて国事を談じたりなどしていた。

その後、数日の暇(いとま)を乞うて魯粛が田舎の母に会いに行くとき、孫権は衣服や帷帳を贈る。魯粛は恩に感じ、帰府する際にひとりの人物を伴って紹介した。今年27歳になる諸葛瑾(しょかつきん)だった。

孫権は魯粛から話を聴き、呉の上賓に迎えて重く用いることにした。この諸葛瑾こそ諸葛亮(しょかつりょう)の実兄で、弟より7つ年上だった。

ここで孫権が、諸葛瑾は亡兄の孫策と同年だと言っていた。だが、史実の諸葛瑾は熹平(きへい)3(174)年生まれで、孫策より1つ年上。やはり孫策の生年に誤解があるようだ。なお井波『三国志演義(2)』(第29回)では、ここで諸葛瑾の年齢に触れていなかった。

諸葛瑾が諸葛亮より7つ年上というのは史実と同じ。ちなみに弟の諸葛亮は光和4(181)年生まれ。

管理人「かぶらがわ」より

毎夜現れる于吉に憔悴(しょうすい)し、古傷を悪化させて亡くなる孫策。そしてわずか19歳で跡を継ぐことになった弟の孫権。

周瑜の説得によって動いた魯粛と、その魯粛の紹介で諸葛瑾も新加入。孫権への代替わり後、さっそく陣容が強化されました。

周瑜が言っていましたけど、とにかく人が大事なんですよね。ひとりの優れた人物を迎えると、別に交際のある優れた人物を紹介してくれるケースは多いですから……。

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