吉川『三国志』の考察 第167話「功なき関羽(こうなきかんう)」

赤壁(せきへき)から逃避行を続けた曹操(そうそう)主従は、いよいよ関羽(かんう)が待ち受ける華容道(かようどう)へ差しかかった。

曹操は関羽の姿を見て最期を覚悟したが、程昱(ていいく)に勧められると、彼が許都(きょと)に留まっていたころの話を持ち出し助命を乞う。迷い抜いた末に関羽が下した決断は――。

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第167話の展開とポイント

(01)華容道

難路へかかって全軍まったく進路を失い、雪も吹き積もるばかりなので、曹操は馬上から叱った。そして自ら下知にかかると、負傷兵や老兵はみな後陣へ退かせ、屈強な壮士ばかりを前に出す。

こうして付近の山林を切って橋を架け、柴(シバ)や草を刈って道を開き、泥濘(でいねい)を埋めていく。すさまじい努力と叱咤(しった)により第一の難所は越えたものの、残った士卒を数えてみると300騎足らずになっていた。

峠を越えて5、6里ばかり急いでくると、また曹操は鞍(くら)を叩き、ひとり哄笑(こうしょう)した。諸将が尋ねると、周瑜(しゅうゆ)の愚と諸葛亮(しょかつりょう)の鈍を、今ここに来て悟ったという。

もし自分が赤壁より一気に敗走の将を追撃するならば、この辺りには必ず埋兵潜陣の計を設け、一挙にことごとく生け捕るだろうというのだった。

ところがその笑い声のやまないうちに、一発の鉄砲が彼方(かなた)の林に轟(とどろ)く。

時代背景を考えると、ここで鉄砲が出てくるのはどうかと思う。

たちまち前後ふた手に分かれた鉄甲陣が見え、真っ先に進んでくるのは紛れもなく関羽である。

「最期だっ。もういかん!」

曹操はひと言だけ絶叫すると、観念してしまったように呆然(ぼうぜん)と戦意も失っていた。彼に従う将士も生きた空もない顔をそろえていたが、ひとり程昱は言った。

かつて久しく許都に留まっていたとき、丞相(じょうしょう。曹操)から恩寵をかけられていたことは人もみな知り、関羽自身も忘れていないはずだと。

そこで曹操は、関羽が春秋(しゅんじゅう)の書にも明るいと聞いていると言い、庾公(ゆこう)が子濯(したく)を追った故事を持ち出す。

この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「春秋時代、衛(えい)の庾公之斯(ゆこうしし)は、弓の師匠筋である子濯孺子(したくじゅし)と戦場に対した折、子濯孺子の肘が悪く弓を引けないことを知ると、鏃(やじり)を抜いた矢を4本射かけて引き返した」という。

諄々(じゅんじゅん)と説かれるうちに関羽はいつか頭(こうべ)を垂れ、目の前の曹操を斬らんか助けんか、悶々(もんもん)、情念と知性とに迷い抜く。

ふと見れば曹操の後ろには、敗残の姿も痛ましい彼の部下が、みな馬を下り大地にひざまずき、涙を流してこちらのほうを伏し拝んでいた。

ついに関羽は情に負けた……。無言のまま駒を取って返すとわざと味方の中に交じり、何か声高に命令していた。

曹操はハッと我に返り、士卒とともにあわただしく峠を駆け下っていく。すでに曹操主従がふもとのほうへ逃げ去ったころ、関羽はことさら遠い谷間から回り道して追った。

その途中、惨めなる一軍に行き会う。見れば曹操の後を慕っていく張遼(ちょうりょう)の一隊で、武器も持たず、馬も少なく、負傷していない兵はまれだった。関羽は敵のために涙を催し、長嘆一声、すべてを見逃し通してしまう。

こうして虎口を逃れた張遼は、やがて曹操に追いつき合体したが、両軍を合わせても500に足らず、一条(ひとすじ)の軍旗すら持っていなかった。

(02)南郡(なんぐん。江陵〈こうりょう〉?)の郊外

この日の夕暮れに至り、また行く手のほうに猛気盛んな一軍が来るのとぶつかる。だがこれは死地を設けた伏勢ではなく、南郡に留守していた曹仁(そうじん)が迎えに来たものだった。

(03)南郡(江陵?)

曹操は曹仁らとともに南郡へ入城。赤壁以来の三日三晩の疲れを癒やし、ようやく生ける身心地を取り戻した。

戦塵(せんじん)の垢(あか)を洗って温かい食事を取り、大睡一快をむさぼると、曹操は忽然(こつぜん)と天を仰ぎ、嗚咽(おえつ)せんばかり涙を垂れて泣く。

人々が怪しむと、亡き郭嘉(かくか)を夢に見たのだと応ずる。もし今日、郭嘉が生きていたらと思い出したのだと。

それから曹操は曹仁を呼び、南郡の守りを託す。敵の襲撃に遭っても必ず守るを旨とし、城を出て戦ってはならないと。

この荊州(けいしゅう)の南郡から襄陽(じょうよう)と合淝(がっぴ。合肥)の二城を連ねた地方は、曹操にとって重要な国防の外郭線になった。

曹操は都(許都)に帰るに際し、曹仁に一巻を預け、城に危急が迫ったときは巻中の策に従い、籠城するよう言い残す。

襄陽の守備には夏侯惇(かこうじゅん)を留め、合淝は特に重要な地とあって張遼を守りに入れ、楽進(がくしん)と李典(りてん)を副将として添えた。

こう万全な手配りを済ませて曹操は南郡を去ったが、左右の大将も士卒もあらかた後の防ぎに残していったため、都へ帰ったのはわずか700騎ほどにすぎなかったという。

(04)夏口(かこう)

そのころ夏口の城楼には戦勝の凱歌(がいか)が沸いていた。張飛(ちょうひ)や趙雲(ちょううん)、そのほかの士卒はみな戦場から立ち帰り、敵の首級や鹵獲品(ろかくひん)を並べて軍功帳に記され、おのおの勲功を競っていた。

折ふし関羽も手勢とともに戻って悄然と拝礼する。

諸葛亮は功を述べるよう促すが、関羽は罪を乞うために来たのだと言う。事情を察し激怒した諸葛亮は、私情をもって軍令を無視した罪は許されないと、武士に命じて斬らせようとする。

すると当の関羽ではなく劉備(りゅうび)が、膝を曲げないばかりに哀れみを仰ぐ。

諸葛亮は、許すことはできないが、思し召しのまま暫時、処断を猶予すると告げた。

(05)南郡(江陵?) 周瑜の本営

数万人の捕虜が赤壁から呉(ご)へ運ばれた。呉軍はすべて包有し一躍大軍となり、整備を増強して江北(こうほく)へ押し渡る。

そうしたある日、周瑜の中軍を劉備配下の孫乾(そんけん)が訪ねてきた。贈り物を献じ、戦勝のお祝いを述べるために来たのだという。

このとき周瑜は南郡まで進んでおり、5か所の寨(とりで)を粉砕して南郡城に肉薄し、陣を取ったその日だった。

四方山(よもやま)の話の末、周瑜は劉備や諸葛亮の所在を尋ねるが、ふたりとも油江口(ゆこうこう)にいると聞き、驚いた様子を見せた。

『三国志演義(3)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)の訳者注によると、「(油江口は)油江が長江(ちょうこう)に合流する地点。赤壁の戦いの後、劉備はここに城を築いて軍隊を駐屯させ、公安県(こうあんけん)を置いた。現在の湖北省(こほくしょう)公安県東北に位置する」という。

それからは話も弾まず、いずれ自ら返礼に出向くと伝え、孫乾を追い返すように帰した。

翌日、魯粛(ろしゅく)が昨日のことを尋ねると、周瑜は、劉備が油江口に陣を移したとすれば、それは南郡を攻め取ろうという野心があるからで、聞き捨てならないと答える。

魯粛も同意すると、周瑜はさっそく劉備の陣を訪問し、一本釘(くぎ)を打っておこうと言い、供の兵馬や贈り物の準備を頼んだ。

「釘を打って」でも通じるかもしれないが、ここは「釘を刺して」としたほうがよさそう。

管理人「かぶらがわ」より

諸葛亮の見立て通りではあるものの、関羽が情に負けたことにより、無事に南郡まで逃げ延びた曹操。

そして舞台は荊州南部を巡る攻防戦へ――。また新たな駆け引きが始まりますね。

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