吉川『三国志』の考察 第202話「西涼ふたたび燃ゆ(せいりょうふたたびもゆ)」

建安(けんあん)18(213)年、先に曹操(そうそう)に惨敗を喫し、いずこともなく落ち延びた馬超(ばちょう)が隴西(ろうせい)諸郡の攻略を進め、勢いを盛り返しつつあった。

しかし、冀城(きじょう)で馬超に降って許された楊阜(ようふ)は、従兄弟の姜叙(きょうじょ)らとともに曹操への忠義を貫き、馬超討伐に起ち上がる。

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第202話の展開とポイント

(01)冀県

忽然(こつぜん)と蒙古高原(もうここうげん)に現れ、胡夷(えびす)の猛兵を従えてたちまち隴西の州郡を切り取り、日に日に旗を増す一軍があった。

『三国志演義(4)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)の訳者注には、「(ここで隴西とあるのは)『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・馬超伝)や(魏書〈ぎしょ〉・楊阜伝)によれば隴上(ろうじょう。隴山一帯)。隴上には、隴西・南安(なんあん)・漢陽(かんよう)・永陽(えいよう)の諸郡が含まれる」とある。

同じく『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、「隴上は地域名。隴山、現在の陝西省(せんせいしょう)隴県以西を指していう。現在の甘粛省(かんしゅくしょう)に相当」という。

建安18(213)年の秋8月である。この大将は先に曹操に敗れ、どこかへ落ちていった馬騰(ばとう)の子の馬超だった。

ところが冀県の城ひとつだけ、よく支えて容易に抜けない。守将は韋康(いこう)という者で、長安(ちょうあん)の夏侯淵(かこうえん)へ使いを飛ばし、援軍を待っていた。

しかし夏侯淵からは、「中央の曹丞相(そうじょうしょう。曹操)のお許しを待たずには、兵を動かしがたい」という返書が届き、落胆した韋康は降伏を考える。

参軍(さんぐん)の楊阜は反対し、極力諫めたが、韋康は門を開き、寄せ手の馬超に膝を屈してしまった。

馬超は降を容れて城中へなだれ込むとともに、韋康以下、その一類40余人を搦(から)め捕り、数珠(じゅず)つなぎに首を刎(は)ねる。

「このときになり降伏するなどという人間は、義において欠けるし、味方に加えてもどうせ使い物にはならん奴らだ」と、悔いも惜しみもしなかった。

一方で楊阜が降参に反対していたことは評価し、かえって助けたばかりか参事(さんじ)として用い、冀城の守りを預けた。楊阜は心の内に深く期すものがあるので、表面では従っていたが、あるとき馬超に数日の休暇を願い出る。

「私の妻は、もうふた月も前に故郷の臨洮(りんとう)で死にましたが、このたびの戦乱で、まだ弔いにも行っておりません。郷土の縁者や朋友(ほうゆう)の手前、一度は行ってこなければ悪いのですが……」

馬超は即座に許した。

井波『三国志演義(4)』(第64回)では、楊阜が馬超に、妻が臨洮で死亡したため2か月の休暇を頂いて帰り、埋葬したらすぐに戻ってくると申し出て許されていた。

(02)歴城(れきじょう)

こうして楊阜は帰郷したが、目的は歴城の叔母を訪ねることにあった。この叔母は、近国までも「貞賢の名婦」として聞こえている女性だった。

ここで楊阜は帰郷したとあったが、彼は天水郡(てんすいぐん)冀県の出身。なので、その妻が(隴西郡の)臨洮県の出身という設定になっているようだ。

楊阜は叔母に会い、「面目もありませぬ」と床に伏して拝哭(はいこく)。ただ、甘んじて敵に飼われていることは残念だが、心まで馬超に許してはいないとも話す。

さらに楊阜が、叔母の息子である姜叙の態度を非難すると、一方の帳(とばり)を払い、当の姜叙が入ってくる。

撫夷将軍(ぶいしょうぐん。撫彝将軍)の姜叙は言うまでもなく楊阜と従兄弟の間柄になり、韋康とは主従の関係にあった。

当然、歴城の兵をひきいて韋康を赴援すべきだったが、滅亡が早かったため、兵を整えて駆けつけるのが間に合わなかった。

しかし姜叙は、あなたこそ一戦にも及ばずに冀城を渡してしまったではありませんかと、母の前も忘れて客の楊阜を罵倒する。

すると楊阜はかえってその意気を喜び、自分の降伏は一時の恥を忍び、主君の仇(あだ)を討たんがためであると説明。姜叙が郷党をひきいて冀城へ攻めてくるなら、城中から内応すると言う。

姜叙は、もとより多感な青年である。義のために一身を滅ぼすも惜しみはないと、ここに義盟を結び、密かに兵備にかかった。

歴城の内に、姜叙が信頼しているふたりの士官がいた。統兵校尉(とうへいこうい)の尹奉(いんほう)と趙昂(ちょうこう)である。

(03)歴城 趙昂邸

趙昂の子の趙月(ちょうげつ)は冀城の落城後、小姓として馬超のそば近くに仕えていた。趙昂は家に帰ると、姜叙から馬超討伐の兵備を命ぜられたことを話す。

敵城にある子の父が姜叙に味方していると知れたら、たちまちわが子は殺されてしまう。趙昂の妻は涙を浮かべたが、その涙を自ら叱るように声を励まして言った。

井波『三国志演義(4)』(第64回)では、趙昂の妻は王氏(おうし)とある。

「ひとりの子を顧みて主命を過ち、郷党を裏切りなどしたら――。あなたの武士が立たないのみか、ご先祖を汚し、子孫に生き恥をさらさせるものではありませんか」

「何を迷っていらっしゃるのですか。もしあなたが大義を捨てて不義に走るようなことがあったら、私とて生きてはおりません」

多年連れ添ってきた妻ながら、趙昂は彼女の立派な言葉にいまさらのごとく驚く。そしてこう言った。

「よし。もう惑わぬ」

(04)祁山(きざん)

姜叙と楊阜は歴城に屯(たむろ)し、尹奉と趙昂は祁山へ進出した。趙昂の妻は衣服や髪飾りを残らず売り払い、祁山の陣中へたくさんの酒壺(しゅこ)を運ばせて言う。

「門出の心祝いです。どうかこれを納め、士卒の端に至るまで一盞(いっさん)ずつ分けてあげてください」

事情を聞かせて酒を分けるとみな感激し、涙とともに飲み、士気は慨然と奮い上がった。

(05)冀城

一方、このことはすぐに冀城に聞こえたので、馬超の怒りは言うまでもない。趙月の首が刎ねられると全軍は血震いした。龐徳(ほうとく。龐悳)と馬岱(ばたい)はすぐに発向し、続いて馬超も歴城へ駆けていく。

(06)歴城の城外

姜叙と楊阜以下、みな白い戦袍(ひたたれ)を着けて白い旗を掲げ、弔い合戦の決意を固めて待った。

ここで白い戦袍や白旗を用いているのは服喪中であるため。

馬超は一笑して、この白色軍を蹴散らし始める。彼の勇は万夫不当で、当然のように歴城の兵は踏みつぶされてしまう。姜叙と楊阜はその敵ではなく、散々に敗れて引き退く。

だがここで、祁山に布陣していた尹奉と趙昂が鼓を鳴らし、馬超の側面へ掛かった。姜叙と楊阜も急に取って返し、側面へ出た味方と呼応して挟撃の形を取る。

馬超の軍勢も一時は苦境に立ったが、装備の悪い地方郷党軍と、完全な装備を持った胡北(えびす)の猛兵とは到底比較にならない。たちまち馬超軍は陣形の不利を盛り返し、反撃に出る。

またも姜叙ら歴城軍は算を乱して死屍(しし)を積み、今や壊滅に瀕(ひん)していた。

ところが思わぬ新手の大軍が山を越え、馬超軍の後ろから攻め寄せる。曹操の許しを受けて駆けつけた長安の夏侯淵だった。これを見た馬超は、出直しを図ろうと冀城へ引き揚げる。

(07)冀城

しかし馬超が城へ近づくと、味方のはずの城中より雨あられと矢が射かけられる。叱りつつ城門の前にかかると、壁上からいくつもの亡骸(なきがら)が放り投げられた。見るとそのひとつは妻の楊氏。ほかの3つは3人の子であった。

なお限りなく、壁上から亡骸が落ちてくる。そのすべてが自分の縁につながる肉親や一族だった。さすがの馬超も馬から転げ落ちそうになる。

そこへ馬岱と龐徳が追いつき、城中の梁寛(りょうかん)と趙衢(ちょうく)が夏侯淵に内応したようだと告げ、早くほかへ逃げるよう促す。

(08)歴城

群がる敵を払いながら終夜駆け通し、朝霧の中に一城の門が見えた。馬超が大いに恐れて聞くと、龐徳は敵の歴城だと言う。龐徳は馬超と馬岱を励まし、自ら先に立つと、「姜叙の旗本である!」と怒鳴りながら、わずか5、60騎でどんどん城内へ入った。

こうして城中へ入った馬超の一党は、姜叙の屋敷を襲ってその母を殺害。さらに尹奉と趙昂の屋敷を包囲し、その妻子から召し使いまでを皆殺しにする。ただ、かの貞節な趙昂の妻だけは、祁山の陣へ行っていたので難を逃れた。

手薄な城兵も逃げるか討たれるかして、歴城はわずか5、60人の馬超軍に占領された。だが、それはたった一夜の安眠でしかなかった。

翌日になると、夏侯淵・姜叙・楊阜の軍勢が歴城を奪回。馬超は乱軍の中をよく戦いつつ、馬岱や龐徳らとともに国外遠く、いずこともなく逃げ落ちていった。

井波『三国志演義(4)』(第64回)では、このとき楊阜の兄弟7人が一斉に加勢に駆けつけたものの、みな馬超に殺されたとある。だが、吉川『三国志』ではこのことに触れていない。

管理人「かぶらがわ」より

一度は勢いを盛り返したものの、再び落ち延びていく馬超。彼の妻子については謎も残るので、小説などのネタとして使えそうな感じ。

なお、楊阜の叔母(姜叙の母)と趙昂の妻(王異〈おうい〉)は、皇甫謐(こうほひつ)の『列女伝(れつじょでん)』で採り上げられています。

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