曹操(そうそう)は左慈(さじ)の一件以来、何となく体調が優れない。そこで許芝(きょし)の勧めに従い、卜(うらない)の名人として知られる管輅(かんろ)を招く。
そして管輅から、左慈の見せたものの正体は幻術だと聞かされると、曹操の顔色もようやく晴れた。
第214話の展開とポイント
(01)鄴都(ぎょうと) 魏王宮(ぎおうきゅう)
左慈の一件以来、体調が優れない曹操は、太史丞(たいしじょう)の許芝を病室へ召し、許都(きょと)の卜者(うらないしゃ)に観てもらいたいと言った。
★『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第69回)では、太史の許芝とある。
すると許芝は、卜の名人なら近くにいると言い、管輅の名を挙げる。曹操が管輅の実力について尋ねると、許芝はいくつかの例話を交えて説明し始めた。
管輅はあざなを公明(こうめい)といい、平原(へいげん)の人である。
容貌は醜く、風采は上がらず、酒を飲み、性疎狂なりと言われており、ほかに取り柄はないものの、ただ幼にして、神童の聞こえがあったのだと。
曹操は、神童に長じてまで神童だった者はいないと応ずるが、管輅は今もってその名を辱めないのだという。
8、9歳のころから天文が好きで、夜も星を見ては考え、風を聞いては案じ、少し気違いじみていた。心配した両親が、そのようなことばかりしていて、いったいお前は何になる気かと聞いたところ、管輅はこう答えたという。
「家鶏野鵠(やこく)モオノズカラ時ヲ知リ風雨ヲ知リ天変ヲ覚ル。イカニ況(いわ)ンヤ人タルモノヲヤ。豈(あに)天文グライヲ知ラナイデ人間トイエマスカ」
また、長ずるに及んでは『周易(しゅうえき。易経〈えききょう〉)』を究め、15歳の時には四方の学者もかなわなかった。
曹操は、そういうことは世間にいくらでもある。学究というもので、これが案外、学究のほかでは使い物にならないと言う。
だが許芝は、管輅の場合はさにあらずで、早くから天下を周遊し、日に100冊の古書を読み、日に1千語の新言を吐くという人なのだと応ずる。
さらに曹操が易の腕前を尋ねると、許芝は、管輅がある折に旅の宿を求めたときの話をした。
家の主は管輅が易者だと知り、今しがた、わが家の屋根に山鳩(ヤマバト)が来て、いつになく哀れな声で鳴き去った。これを卜(うらな)いたまえと乞うた。
管輅は易を案じ、こう予言する。
「午(うま)ノ刻(正午ごろ)ニ、主ノ親シキ者、猪(イノコ)ノ肉ト酒トヲタズサエテ、訪イ来ラン、ソノ人、東ヨリ来テ、コノ家ニ、悲シミヲモタラス」
果たしてその時刻に、主の叔母婿なる者が肉と酒とを土産にもたらし、主と飲むうち夜に入り、なお酒肴(しゅこう)を求めるため、奴僕に鶏を射て殺せと命じた。ところが奴僕の射た矢が、隣家の娘に当たったので、大変な悲嘆やら騒動になったのだと。
曹操はまだ、そう感心したような顔を見せない。許芝は構わず語り続けた。
安平太守(あんぺいたいしゅ)の王基(おうき)が管輅のうわさを聞き、その妻子に病人の多いのを卜わせ、禍いを除いたこともあった。
★井波『三国志演義(5)』(第69回)では、ここでいう妻子は王基の妻子ではなく、信都県令(しんとけんれい)の妻子だった。
また、館陶県令(かんとうけんれい)の諸葛原(しょかつげん)がわざわざ管輅を招き、衆臣と卜占(ぼくせん)の神凡を試したこともあったと。
曹操が、どう試したのかと聞くと、許芝は答える。
「まず、燕(ツバメ)の卵と蜂の巣と蜘蛛(クモ)を3つの箱に隠し、卦(け)を立てさせたのです。もとよりそれは厳秘の下に行われました。管輅は卦を立てて、個々の箱の上に答えを書き付けて差し出しました」
「その一には、『気ヲ含ンデスベカラク変ズ。堂宇ニ依ル。雌雄容(かたち)ヲ以テ、羽翼ヲ舒(の)ベ張ル。コレ燕ノ卵ナリ』」
「その二には、『家室倒(さかしま)ニカカリ。門戸衆多。精ヲ蔵(かく)シ、毒ヲ育(やしな)イ、秋ヲ得テスナワチ化ス。コレ蜂ノ巣ナリ』」
「その三には、『觳觫(こくそく。死を恐れるさま)トシテ脚ヲ長ウシ、糸ヲ吐イテ網ヲナス。羅(あみ)ヲ求メテ食ヲ尋ネ、利ハ昏夜(こんや)ニアリ。コレ、蜘蛛ナリ』」
「ひとつも外れていないのでした。これにはみな驚嘆したということです」
曹操は、いくらでも例話を聞きたがる。そこで許芝は別の話を聞かせた。
「管輅の郷土(平原郡)に牛を飼っていた女がいました。ある折、その牛を盗まれたので、管輅のところへ泣いて卜を乞いに来たそうです」
「そこで管輅が一筮(いちぜい)して言うには、『北渓ノ西ヘ行ッテミナサイ。下手人ガ七人オル。皮ト肉トハ、未ダアルダロウカラ』と」
「女が行ってみると、果たして一軒の茅屋(ぼうおく)に、7人の男が車座になり、牛を煮て食いながら酒盛りをしていたそうです。すぐにその地の役人へ訴えたので、7人の泥棒は捕まり、皮と肉は女の手に戻されたそうです」
曹操が、易というのはそれほど当たるものかと興味を示すと、許芝は続けて言う。
「いま申し上げた牛飼いの女のことが太守に聞こえたので、管輅を召し、山鶏の毛と印章の囊(ふくろ)を別々の箱に隠して卜わせてみたところ、寸分たがわずに当てたと申しまする」
★井波『三国志演義(5)』(第69回)では、ここでいう太守が平原太守の劉邠(りゅうひん)だったとある。
加えて許芝は、もっと有名だという趙顔(ちょうがん)の話をする。
「ある春の夕べに管輅が道を歩いていると、ひとりの美少年が通りかかりました。彼は人を見ると、すぐ人相を観ることが習癖のようになっているので、思わず口走ったものとみえます。『あぁ少年、惜しいかな、3日のうちに死せん』と」
「凡人の言なら戯れと聞き流しましょうが、評判な卜の名人の言でしたから、少年は泣き泣き走り去って、父親に告げました」
「父親も青くなり、何とかして3日のうちに死ぬことのないように、禍いを免れる工夫はないものでしょうかと、管輅の家へ泣きついてきたのですな」
曹操は「それだ!」と、待っていたように言う。
「過ぎ去ったことだの、箱の中に隠してある物を当てたところで、何の世人の益にもならない。未然の禍いを防ぐということができるものか否か、わしはさっきから聞きたかったのだ。で、管輅は何と言った?」
許芝は続ける。
「『人命はすなわち天命、人事及びがたし』と断ったのです。けれど、老父も美少年も泣いてやみません。哀れを覚え、つい管輅が教えました。『ひと樽(たる)の佳酒と鹿の脯(ほじし。干し肉)を携え、明日、南山(なんざん)を訪え』と」
「そして『南山の大きな樹の下に、碁盤を囲んで碁を打っているふたりがあろう。ひとりは北へ向かって座し、紅衣を着、容姿も麗しい。もうひとりはその貌(かお)極めて醜いが、ともに貴人であるから謹んで近づき、酒を捧げて願いを乞うがよい。ただし、管輅が教えたなどということは、おくびにも出してはいけないぞ』と」
「そう固く戒められたうえ、老父と少年は翌日、酒を携えて南山へ行きました。幽谷をさまようこと5、6里、果たして一樹の下に、碁を打っている二仙がいました」
「父子は静かに傍らに侍り、ふたりの興に乗じているところへ、酒を勧めました。ふたりとも夢中になって飲みかつ語り、また碁に熱していましたが、やがて打ち終わった様子に、老父が初めて願いの趣を泣いて訴えます」
「紅衣の仙も白衣の仙も急に驚いて、これはきっと管輅の仕業だろう、困ったものだとつぶやいていましたが、そのうち懐からおのおのの簿を取り出しました」
「二仙は相顧みて、すでに人間の私的な施しを受けてしまったのだから、もう仕方がない。この少年は本年で人生を終わることになっていたが、十九の上に『九』の一字を加えて取らせん。いかに? と言うと、一方もうなずき笑い、『九』の字を書き加え、たちまち中天から鶴を呼び、それに乗って飛び去ってしまったということです」
「後に老父が管輅に謝して、『いったい、あの碁を打っていたふたりは誰ですか?』と尋ねたところ、管輅が『紅き衣を着た人は南斗(なんと)、白い衣を着て容貌の醜いほうが北斗(ほくと)だよ』と言ったそうです」
「何にしても、19歳で死ぬところだった少年が、99歳まで生きることになったというので、たいへん人々にうらやまれていますが、以来管輅は、われ誤って天機を人界に漏らすの罪大なりと、自ら深く恐れ慎み、誰が何と言っても決して卜筮(ぼくぜい)を取らないことにしているそうです」
曹操は、誰が何と言っても今は観ないと聞くと、急に目を輝かせ、ぜひ連れてこいと言いだし、許芝を迎えに遣った。
管輅は固く拒んだが、許芝の再三の懇望と、魏王(曹操)の命というのにもだし得ず(無視できず)、ついに伴われて曹操の前に出る。
曹操は、まず人相を卜ってほしいと言うが、管輅は笑って答えた。
「大王はすでに位人臣を極めた御人。何のいまさら、相を観る余地がありましょう」
すると曹操は、自分の病について卜ってほしいと言い、近ごろしきりに気になっている左慈の事件を子細に話す。
管輅は、なお笑って答えた。
「それはみな世にいう幻術というものです。幻語や幻気を吐いて巧みに人の心眼を惑わし、即妙の振る舞いをしてみせるものですが、もとより実相のものにはあらず。大王、何ぞ御心(みこころ)に病むことやある。奇妙というにも足らないではありませんか?」
曹操は急に気の晴れ上がったような顔をする。本来の知識も彼を覚ました。さらに将来の天下について尋ねたものの、管輅はあえて天眼を誇らず、むしろ凡々と装い、そういう大事には語を避けた。
それでも曹操は世間話のごとく、打ち解けた態をもって諸州の形勢を物語り、劉備(りゅうび)や孫権(そんけん)などのうわさにも触れる。
そうして、それとなく各国の軍備や兵力、また文化の進展などについて飽くなく話しかけると、管輅も釣られて自己の見解を述べ、天数運行の理をもって事ごとに判断を下した。
曹操はすっかり傾倒してしまう。彼も天文や陰陽学には並々ならぬ興味を持っているので、管輅に太史官(たいしかん)への就任を促してみる。
★この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「(太史官とは)太史令(たいしれい)のこと。官秩(官吏の給料)は600石(せき)。天文・星暦をつかさどり、吉凶を判別した」という。
だが管輅は首を振り、自分の人相は官吏になる相ではないと言う。泰山(たいざん)にあって鬼(死者)を治すべきで、生ける人を治する器ではないとも。
曹操は、自分の臣下では誰と誰が人を治す器だろうか、などとも問うてみた。
だが管輅は、「それは大王のお眼鏡のほうが、遥かに確かでおいででしょう」とのみで、あえて明答しなかった。
重ねて呉の吉凶を尋ねると、管輅は言下に言う。
「呉では、誰か有力な重臣が死ぬと思われます」
続けて蜀についても尋ねると、管輅はこう答える。
「蜀は兵気盛んです。察するに近日、境を侵し、ほかを犯すこと必然です」
その後、幾日も経たないうちに合淝(がっぴ。合肥)から早馬が着き、呉の魯粛(ろしゅく)が病死したことを知らせてきた。
また漢中(かんちゅう)からも使いが着き、蜀の劉備が内治の功を上げ、いよいよ張飛(ちょうひ)と馬超(ばちょう)を先手とし、漢中へ侵攻の気勢を示していると知らせてきた。
予言はふたつとも的中した。曹操はすぐに出馬を計ったが、管輅は再び予言して告げた。
「来春早々、都の内に必ず火の禍いがありましょう。大王は滅多に遠くへ行かれるべきではございません」
これを聞いた曹操は、曹洪(そうこう)に5万騎を授けて漢中へ差し向け、自身は鄴郡に留まっていた。
管理人「かぶらがわ」より
管輅のエピソードに終始した第214話。(新潮文庫の)ページ数は多くなかったので油断していましたが、こうまとめてみると、削れるところが少なくて手間がかかりました。
管輅の左慈評は的を射ていると思います。実際の左慈は道士だったようですが、吉川『三国志』や『三国志演義』で描かれたそれは、まさに幻術師でしたからね……。
なお、この第214話にあった管輅の例話については、井波『三国志演義(5)』(第69回)と比べると省かれているものもありました。ただ、そのあたりは吉川『三国志』の裁量ですから、ここでは細かい異同に触れていません。
テキストについて
『三国志』(全10巻)
吉川英治著 新潮社 新潮文庫
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。
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