魏(ぎ)の大艦隊は広陵(こうりょう)に達し、曹丕(そうひ)は旗艦を長江(ちょうこう)へ進め、対岸の様子を探らせる。偵察から戻った者の報告によれば、ひとりの民すら見かけなかったとのことだった。
だが一夜明けると、快晴の対岸には数百里にわたって、様々な防御施設が出現する。これは呉(ご)の徐盛(じょせい)の計だった。それでも曹丕は引かず、呉軍に決戦を挑む。
第262話の展開とポイント
(01)徐盛の本営
孫権(そんけん)にとって、甥の孫韶(そんしょう)は義理ある兄の子であり、また兄の家である兪氏(ゆし)の相続人でもあった。彼が死罪になれば、兄の家が絶えることになる。
★前の第261話(03)から引き続き、徐盛の本営がどこにあったのかわからない。
★『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)の訳者注には、「『三国志』(呉書〈ごしょ〉・宗室伝〈そうしつでん〉)によれば、孫策(そんさく)にかわいがられて孫の姓を与えられたのは、孫韶の叔父の孫河(そんか)である」とあった。また「『三国志演義』(第82回)に登場する孫桓(そんかん)はこの孫河の息子であり、したがって孫韶の従兄弟にあたる」ともあった。
なお井波『三国志演義(5)』(第86回)では、孫権が徐盛に「この子(孫韶)はもとの姓を兪氏というが、亡兄(孫策)が非常にかわいがって孫の姓を賜った者であり、私にとっても功労者だ。いま彼を殺せば、亡兄に義理が立たないのだ」と話していた。
身は呉王(ごおう)の位置にあっても、軍律の重きことばかりは如何(いか)んともしがたいので、孫権はそのような事情まで語り、甥の命乞いをした。
「大王の龍顔(本来は天子〈てんし〉のお顔の意)に免じて、死罪だけは許しましょう。しかし戦後、改めて罰するかもしれません。それだけはお含みおきを」
王の言葉に対しては、徐盛も譲歩せざるを得ない。
孫権は、そばにいる孫韶に言った。
「都督(ととく。ここでは大都督〈だいととく〉の意)にお礼を言え。拝謝せい」
だが孫韶は昂然(こうぜん)として、「嫌です!」と首を振る。そしてなお、反対に声を荒らげて、唾するように言い放つ。
「惰弱極まる都督の作戦には、今後とも服しません。私が従わないのは軍律に背くかもしれませんが、呉国のためには最大の計であると信じております。この忠魂、何ぞ死を恐れんやです。まして初志を曲げるなど嫌なことです!」
これには孫権もあきれ果てたものとみえ、こう言って宮門へ帰った。
「このわがまま者め。徐盛、もう再び、このようなわがまま者は陣中で使ってくれるな」
するとその晩、「孫韶が部下3千を連れ、勝手に兵船を出し、江を渡ってしまいました」との知らせが届き、徐盛の眠りを驚かせる。
徐盛は憤怒したが、見殺しにもできない。にわかに丁奉軍(ていほうぐん)4千を救援として追いかけさせた。
★井波『三国志演義(5)』(第86回)では、このとき丁奉がひきいた軍勢は3千。
(02)広陵
その日、魏の大艦隊は広陵まで進んでいた。先鋒の偵察船が、河流を出て揚子江(ようすこう。長江)をうかがったものの、一小船の影も見えない。
曹丕は自ら敵の様子を見ようと、旗艦を河口から長江へ出し、船楼に上がって江南(こうなん)を眺めた。しかし、沿岸はどこを眺めても、漆のような闇一色。蔣済(しょうさい)は、一挙に対岸へ攻め寄せてはどうかと勧める。
これを劉曄(りゅうよう)があわてて制して戒めた。
「実々虚々、鬼神も計るべからずという。そこが兵法であろう。功を焦らず、まず数日はよくよく敵の気色をうかがうべきであろう」
曹丕も劉曄の意見に同意した。だが、敵地深くを探った偵察船も戻ったものの、呉のどこの岸をうかがっても、民さえおらず、部落も墓場のようだという。
五更(午前4時前後)が近づくと、江上一帯に濃霧が立ち込める。しばらくは咫尺(しせき。極めて近い距離。咫は8寸、尺は10寸)も見えぬ霧風と黒い波だけが渦巻いていた。
しかし夜が明けて日が高く昇ると、霧は吹き晴れ、対岸10里の先も手に取るようによく見える快晴だった。
ひとりの大将から報告を受け、曹丕が船房より出て手をかざしてみると、呉の沿岸数百里の間は一夜にして景観を変えていた。
昨夜(ゆうべ)まで一点の灯(ひ)もなく、一旒(いちりゅう)の旗も見られず、港にも部落にも人影ひとつ見えないとの報告だったのに、いま見渡せば、港には陸塁と水寨(すいさい)を連ね、山には旌旗(せいき)が満ち満ちて翻り、丘には弩弓台(どきゅうだい)や石砲楼がある。
また江岸の要所要所には、無数の兵船が林のごとく檣頭(しょうとう。帆柱の先)を集め、国防の一水ここにありと、戦気烈々たるものがあるではないか。曹丕は思わず長嘆を発し、敵ながら見事よと褒めたたえた。
要するにこれは、呉の徐盛が、江上から見えるあらゆる防御施設に草木や布を覆いかぶせ、住民をほかへ移したうえ、城郭に迷彩を施したりし、まったく敵の目をくらませていたもの。
そして曹丕の旗艦以下、魏の全艦隊が、今や淮河(わいが)の隘路(あいろ)から長江へ出てくる気配を見たので、一夜に沿岸の偽装をかなぐり捨て、敢然と決戦態勢を示したものである。
曹丕はにわかに下知して、淮水の港へ引き返そうとした。だが、運悪く狭い河口の洲(す)に旗艦が乗り上げ、日暮れまでその引き下ろしに混乱する。
ようやく船底が洲を離れたかと思うと、今度は昨夜以上の烈風が吹きだした。諸船(もろぶね)は暗黒の中に戒め合いながら、疾風にもまれていたが、そのうち船と船とが衝突。舵(かじ)を砕かれ、帆柱を折られ、暴れすさぶ咆哮(ほうこう)の中に、群船はまったく動きを失う。
(03)淮河の沿岸 曹丕の本営
船酔いした曹丕を、文聘(ぶんぺい)が背負って小舟に跳び移り、辛くも淮河の懐をなしている一商港へ上がった。船酔いは土を踏むと、すぐ忘れたように治る。ここには魏の陸上本営があるので、そこへ入ったときはもう平常の曹丕らしく元気だった。
ところが深夜に至り、暴風雨の中を2騎の早打ちが着き、大事を伝える。
「蜀(しょく)の趙雲(ちょううん)が陽平関(ようへいかん)を出て、長駆わが長安(ちょうあん)を攻めてきました」
曹丕はまた色を失い、この夜のうちに、水陸両軍へ総引き揚げを命じた。曹丕自身もいくらか風が収まるのを待ち、もとの旗艦へ立ち帰ろうとした。
すると、どこから江を渡ってきたのか、3千ほどの兵が現れる。彼らは魏の本営に火を放ち、これを一撃に殺滅したうえ、さらに曹丕を追撃してきた。
味方の失火かと思っていたのが呉軍だったため、曹丕と左右の諸将は狼狽(ろうばい)を極め、見る間に討たれては屍(しかばね)の山をなす味方を捨てて、何とか旗艦まで逃げ戻る。
(04)淮河
淮河の上流へ10里ほど漕(こ)ぎ続けると、たちまち左右の岸や前方の湖が、一瞬にして火の海となった。この辺りには、大船の影も隠れるほどな蘆(アシ)や萱(カヤ)が茂っていたが、呉軍はこれに大量の魚油をかけておき、今宵一度に火を放ったものである。
魏の大艦や小艇など数千艘(そう)は、両方の猛炎と波上を狂い回る油の火龍に、あちこちで焼け沈んだり爆発したりした。
翌日になっても淮河の数百里の間は黒煙が濛々(もうもう)として、この帰結を見ることもできなかった。
管理人「かぶらがわ」より
いったい何がしたかったのかと思わせる、曹丕の東征。魏の参謀連の活躍も見えず、不可解なまでの大敗でした。やはり父の曹操(そうそう)のような采配は望むべくもないですね……。
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