【姓名】 楽進(がくしん) 【あざな】 文謙(ぶんけん)
【原籍】 陽平郡(ようへいぐん)衛国(えいこく)
【生没】 ?~218年(?歳)
【吉川】 第025話で初登場。
【演義】 第005回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・楽進伝』あり。
戦功多数も、その活躍は詳しく語られず、諡号(しごう)は威侯(いこう)
父母ともに不詳。息子の楽綝(がくりん)は跡継ぎ。
楽進は小柄ながら、肝っ玉の大きさをもって曹操(そうそう)に付き従い帳下吏(ちょうかり。記録係)となる。
命を受けて郷里で1千余人の兵を募り、戻った後で仮司馬(かしば)・陥陣都尉(かんじんとい)に任ぜられた。
194年の濮陽(ぼくよう)での呂布(りょふ)攻め、翌195年の雍丘(ようきゅう)での張超(ちょうちょう)攻め、197年の苦(こ)での橋蕤(きょうずい)攻めに参加する。
いずれの戦いでも一番乗りを果たす功を立て、広昌亭侯(こうしょうていこう)に封ぜられた。
同じく197年の安衆(あんしゅう)での張繡(ちょうしゅう)討伐、翌198年の下邳(かひ)での呂布包囲にも参加し、別将を討ち破った。
翌199年の射犬(しゃけん)での眭固(すいこ)攻め、沛(はい)での劉備(りゅうび)攻めでも敵を撃破し、討寇校尉(とうこうこうい)に任ぜられる。
さらに黄河(こうが)を渡って獲嘉(かくか)を攻略。帰還後は翌200年にかけて官渡(かんと)での袁紹(えんしょう)攻めに参加し、敵将の淳于瓊(じゅんうけい)を斬った。
203年、黎陽(れいよう)での袁譚(えんたん)と袁尚(えんしょう)攻めでも敵将の厳敬(げんけい)を斬り、行遊撃将軍(こうゆうげきしょうぐん)に昇進。
後に別軍として黄巾(こうきん)の残党の討伐にあたり、楽安(らくあん)を平定する。
翌204年、鄴(ぎょう)の包囲に参加し、陥落後は南皮(なんぴ)での袁譚攻めにおいて、一番乗りで東門への突入を果たした。
翌205年、曹操が袁譚を敗死させると、楽進は別軍として雍奴(ようど)を攻略。
翌206年、曹操の上奏により于禁(うきん)や張遼(ちょうりょう)ともども功績を評価され、折衝将軍(せっしょうしょうぐん)に任ぜられる。
この年、楽進は別軍として高幹(こうかん)討伐に向かい、北道を通って上党(じょうとう)へ入り、迂回(うかい)して敵の背後に出た。
高幹らが引き返して壺関(こかん)を守ると、楽進は連戦し敵兵を斬る。そのうち曹操も軍勢をひきいて駆けつけたため、壺関を陥すことができた。
続いて曹操は海賊の管承(かんしょう)討伐に向かい、淳于に布陣する。楽進は李典とともに攻撃を仕掛け、管承を海上の島への敗走に追い込み、海岸地帯を平定した。
このころ荊州(けいしゅう)が平定されていなかったため、楽進は陽翟(ようてき)に駐屯する。
208年、楽進は荊州平定戦に参加し、襄陽(じょうよう)に留まる。
ここで劉備配下の関羽(かんう)や蘇非(そひ)らを攻め破ったところ、南郡(なんぐん)の諸県の山谷に住む蛮族が降伏してきた。
また、劉備配下の臨沮県長(りんしょけんちょう)の杜普(とふ)や旌陽県長(せいようけんちょう)の梁大(りょうだい)を攻め、これも散々に討ち破った。
翌209年、曹操の孫権(そんけん)討伐(赤壁〈せきへき〉の戦い)に参加したとき、楽進は節(せつ。権限を示すしるし)を貸し与えられる。
そして曹操が帰還する際、張遼や李典とともに留まり、合肥(ごうひ)に駐屯することになった。
215年、孫権が10万の大軍をもって合肥を包囲したものの、張遼や李典らと7千の兵で撃退する。楽進は500戸の加増を受け、以前と合わせて封邑(ほうゆう)が1,200戸となった。
また、たびたびの戦功が評価され、彼の封邑から500戸を分ける形で、息子のひとりが列侯(れっこう)に封ぜられた。
後に楽進は右将軍(ゆうしょうぐん)に昇進する。
218年、楽進は死去して威侯と諡(おくりな)され、息子の楽綝が跡を継いだ。
管理人「かぶらがわ」より
曹操の挙兵当初から仕えていた(と思われる)こともあり、楽進の戦功は張遼らに引けを取らないと思いますが……。
なぜか本伝には簡潔な事績の記事が並ぶばかりで、張遼ほど詳しく語られていませんでした。いくらか不思議な感じがしますね。
コメント ※下部にある「コメントを書き込む」ボタンをクリック(タップ)していただくと入力フォームが開きます