【姓名】 衛覬(えいき) 【あざな】 伯儒(はくじゅ)
【原籍】 河東郡(かとうぐん)安邑県(あんゆうけん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 第066回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・衛覬伝』あり。
多くの書体や古式に精通していた直言の臣
父母ともに不詳。息子の衛瓘(えいかん)は跡継ぎ。
衛覬は若いころから才能と学問を称揚された。曹操(そうそう)に召されて司空掾属(しくうえんぞく)となり、茂陵県令(ぼうりょうけんれい)や尚書郎(しょうしょろう)を務める。
★曹操が司空を務めていた期間は196~208年。
199年、曹操が袁紹(えんしょう)の討伐に乗り出した際、劉表(りゅうひょう)は袁紹に味方し、関中(かんちゅう)の諸将は中立の立場を取った。
益州牧(えきしゅうぼく)の劉璋(りゅうしょう)は劉表と仲が悪かったため、衛覬は治書侍御史(ちしょじぎょし)として益州へ遣わされる。劉璋に兵を出してもらい、劉表を牽制(けんせい)するのが狙いだった。
ところが長安(ちょうあん)まで来ると、その先の道路は進めない。そこで衛覬は関中に留まって鎮守した。
当時は四方から帰郷した民が数多くいて、関中の諸将は彼らを引き入れようとする。
衛覬は荀彧(じゅんいく)に手紙を送り、帰郷した民には生業がなく、彼らが諸将に取り込まれることで、結局は軍人だけが強力になっている現状を述べ、旧来のように塩の売買を監督し、その利益をもって関中を豊かにすべきだと主張した。
荀彧から話を聞くと、曹操は謁者僕射(えっしゃぼくや)を遣わし塩官(えんかん)を監督させる。
また、司隷校尉(しれいこうい)に弘農郡(こうのうぐん)を統治させることで、関中の諸将を服従させた。
衛覬は中央へ召し還され、昇進を重ねて尚書になる。
213年、魏が建国された後は侍中(じちゅう)に任ぜられ、王粲(おうさん)とともに諸制度を整備した。
220年2月、曹丕(そうひ)が魏王(ぎおう)を継ぐと、衛覬は尚書に転ずる。
しばらくして漢(かん)の朝廷に戻って侍郎(じろう)となり、魏への禅譲を勧め、献帝(けんてい)の詔書を起草した。
同年10月、曹丕が帝位に即くと衛覬は再び尚書となり、陽吉亭侯(ようきつていこう)に封ぜられた。
226年、曹叡(そうえい)が帝位を継ぐと閺郷侯(ぶんきょうこう)に爵位が進む。封邑(ほうゆう)は300戸だった。
衛覬の上奏により法律博士(ほうりつはくし)が設置され、下級の獄吏に至るまで、法の理解を深めさせることになった。
また衛覬は、民の役務が多いことや、宮中における浪費を諫めたりもする。
衛覬は詔(みことのり)を受けて著作を担当し、『魏官儀(ぎかんぎ)』など数十編を著した。彼は古文(秦代〈しんだい〉以前の字体)・篆書(てんしょ)・隷書を崩した文字を好み、すべての書体に巧みだったという。
その後、衛覬が死去(時期は不明)すると敬侯(けいこう)と諡(おくりな)され、息子の衛瓘が跡を継いだ。
管理人「かぶらがわ」より
本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王沈(おうしん)の『魏書』には、衛覬の功績や見識に触れた記事がありました。
「そのむかし(190年に)漢王朝が(長安へ)遷(うつ)ると、朝廷の古例は散乱してしまった」
「(196年に)許(きょ)に都を置いて以後、次第に制度は整えられたが、衛覬は古則に従い、訂正や決定に大きく寄与した」というもの。
これに続き、衛覬が関中の諸将の扱いについて発言した記事もあります。
「このとき関西(かんぜい。函谷関〈かんこくかん〉以西の地域)の諸将は表向き曹操に服従していたものの、まだ信用できなかった」
「司隷校尉の鍾繇(しょうよう)は3千の兵をひきいて関中へ入り、張魯(ちょうろ)討伐にかこつけ、諸将を脅して人質を取りたいと願い出る」
「曹操が荀彧を遣って衛覬の意見を尋ねたところ、彼はこう述べた。『西方の諸将は小物が台頭しただけで、天下に活躍しようという気持ちはなく、ただ安楽を求めているだけです。手厚く爵号を与えてやれば、彼らの希望はかないます。大きな変事が起こる心配はございません』」
「『もし兵をもって関中に入れば、もちろん張魯を討伐することになりましょう。ですが張魯は深山におり、道路も通じておらず、西方の諸将に(討伐の本当の対象が自分たちではないかという)疑惑を抱かせることになると思います。彼らが驚いて騒ぎだせば、地勢が険しいうえに軍勢も強力ですから、手を打つことは難しいでしょう』」
「初め曹操は衛覬の意見に賛成したが、最終的には鍾繇の願いを聞き入れた」
「(211年、)こうして鍾繇が進軍を始めると、関右(かんゆう。関中)で大規模な反乱が起こる。曹操が親征してようやく平定したものの、5ケタに上る死者を出した。曹操は衛覬の意見を容れなかったことを後悔し、ますます彼を尊重するようになった」
ここは衛覬の見立てのほうが正確だったと思います。まずは爵位で抑えておき、十分な準備が整った段階で別の手を打つのがよかったのかなと。さすがの曹操も、局地戦略ではイマイチのケースがあったのですね。
ただ『三国志』(魏書・武帝紀〈ぶていぎ〉)では曹操の判断ミスのように書かれておらず、そのためか『三国志』(魏書・鍾繇伝)でも触れられていませんでした。まぁ、これは当たり前のことですけど……。
なお、『三国志演義』(第66回)に衛凱(えいがい)として登場するのが、この衛覬のことだと思いますが、文献によっては両者を別人扱いされているものもありました。
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