高堂隆(こうどうりゅう) ※あざなは升平(しょうへい)

【姓名】 高堂隆(こうどうりゅう) 【あざな】 升平(しょうへい)

【原籍】 泰山郡(たいざんぐん)平陽県(へいようけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・高堂隆伝』あり。

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病を得た後も曹叡(そうえい)を諫め続ける

父母ともに不詳。息子の高堂琛(こうどうちん)は跡継ぎ。

高堂隆は魯(ろ)の高堂生(こうどうせい。前漢〈ぜんかん〉時代の儒者)の子孫である。

若いころ儒学生となり、泰山太守(たいざんたいしゅ)の薛悌(せつてい)から督郵(とくゆう)に任ぜられた。

郡の督軍(とくぐん。官名)が論争したとき、薛悌の名を呼んでどなりつけたことがあった。

高堂隆が剣の柄に手を掛けて無礼を叱ると、督軍は色を失い、薛悌もあわてて彼を引き留めたという。

その後、高堂隆は官職を辞し、済南(せいなん)へ避難する。

213年、高堂隆は曹操(そうそう)に召されて丞相軍議掾(じょうしょうぐんぎえん)となる。

やがて歴城侯(れきじょうこう。217~221年)の曹徽(そうき)の文学(ぶんがく。官名)を務め、歴城国相(れきじょうこくしょう)に転じた。

220年に曹操が崩じた後、曹徽は父の喪に遭いながら哀悼の気持ちを示さず、かえって狩猟に出かけたりする。

高堂隆は道理を説いて直諫し、補導者としての務めを果たした。

曹丕(そうひ)の黄初(こうしょ)年間(220~226年)、高堂隆は堂陽県長(どうようけんちょう)となり、平原王(へいげんおう。222~226年)の曹叡の傅(ふ。守り役)に選ばれた。

226年、曹叡が帝位を継ぐと、高堂隆は給事中(きゅうじちゅう)・博士(はくし)・駙馬都尉(ふばとい)に転ずる。

曹叡が即位したばかりのころ、群臣に供宴を催すよう勧めた者があった。

すると高堂隆は、堯(ぎょう)や舜(しゅん)、殷(いん)の高宗(こうそう)の態度を例に挙げて反対し、曹叡に容れられた。

後に高堂隆は陳留太守(ちんりゅうたいしゅ)に昇進した。

郡の犢民(とくみん。牛飼い?)の酉牧(ゆうぼく)は、70余歳にして非の打ちどころがない徳行を備えていたため、高堂隆は推挙して計曹掾(けいそうえん)とする。

曹叡はこのことを嘉(よみ)し、特に酉牧を郎中(ろうちゅう)に任じた。

高堂隆も召し還されて散騎常侍(さんきじょうじ)となり、関内侯(かんだいこう)に封ぜられた。

太和(たいわ)年間(227~233年)、高堂隆は詔(みことのり)を受け、尚書郎(しょうしょろう)の楊偉(ようい)や太史待詔(たいしたいしょう)の駱禄(らくろく)とともに暦の研究に携わる。

議論は紛糾し数年を経たが、ついに高堂隆の説は採用されなかった。それでも遠近の人々は、この議論を通じて彼の精緻(せいち)さを知ることになったという。

青龍(せいりょう)年間(233~237年)、曹叡は宮殿の大修復を行い、長安(ちょうあん)にあった大鐘を都(洛陽〈らくよう〉)に運ばせようとする。

高堂隆は上奏文を奉り、周(しゅう)の景王(けいおう)の態度を例に挙げ、周の徳が衰微した様子を説いたうえ、小人らの言葉を聞き入れて亡国の器物を取り寄せたりせず、民を使役し国費を無駄遣いしないよう諫めた。

高堂隆は侍中(じちゅう)に昇進し、太史令(たいしれい)を兼ねる。

234年?、崇華殿(すうかでん)が火災に遭うと、曹叡は高堂隆に詔を下して尋ねた。

「これは何のとがなのか? また礼において、祈とうして厄払いする方法はあるか?」

『三国志』(魏書・明帝紀〈めいていぎ〉)には、234年4月235年7月に崇華殿が火災に遭った記事が見える。

高堂隆が応え、災異が起こるのはみな(天の)訓戒を明らかにするためであり、礼を整え徳を修めることだけが、災異に打ち勝つ方法だと述べる。

そして民の役務を取りやめ、宮殿は質素なものにし、焼けたところを清掃し、再びそこに宮殿を造営しないよう忠告した。

だが曹叡は聞き入れず、235年に崇華殿の再建を命じ、名を九龍殿(きゅうりょうでん)と改めた。

崇華殿の再建の記事について、『三国志』(魏書・明帝紀)では235年7月の火災の後に見える。

237年、高堂隆の上奏が容れられ、魏の暦が改訂される。

これにより青龍5(237)年3月が景初(けいしょ)元年4月と改められ、服色は黄色を尊ぶこととし、犠牲(いけにえ)には白色の動物を用い、地正(ちせい。12月を正月とする殷の制度)に従うことになった。

後に高堂隆は光禄勲(こうろくくん)に昇進する。

このころ曹叡の宮殿造営がいよいよ盛んになり、楼閣には彫刻をもって装飾を施し、太行山(たいこうざん)から石英を切り出し、穀城(こくじょう)で文石を採取した。

芳林園(ほうりんえん)に景陽山(けいようざん)を築き、太極殿(たいごくでん)の北に昭陽殿(しょうようでん)を建て――。

黄龍と鳳凰(ほうおう)、さらに大きな獣の像を鋳造し、金墉城(きんようじょう)・陵雲台(りょううんだい)・陵霄闕(りょうしょうけつ)を飾りたてた。

これらの役務には5ケタに上る民が駆り出され、公卿(こうけい)から学生に至るまで作業に加わり、曹叡自ら土を掘り、彼らを監督するありさまだった。

しかし、遼東(りょうとう)の公孫淵(こうそんえん)は参朝せず、毛皇后(もうこうごう)は崩御(ほうぎょ)する。天は長雨を降らせ、冀州(きしゅう)では洪水により人々が流された。

この様子を見た高堂隆は上奏文を奉り、曹叡の態度を厳しく諫めた。

やがて高堂隆は重い病にかかったが、口述して上奏文を書かせる。

その中で曹叡に、これまでの過ちを改め、将来への思いを深く巡らせるよう求めたうえ、朝廷にいる鷹揚(おうよう)の臣(司馬氏〈しばし〉を指すという)を抑え、帝族から諸王を選んで軍を統率させ、帝室を側面から助けさせることを勧めた。

高堂隆は死に臨み(時期は不明)、葬儀を簡素なものにし、その季節の服で身を包んで葬るよう遺言。息子の高堂琛が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝に以下のような話がありました。

景初年間(237~239年)、曹叡は蘇林(そりん)や秦静(しんせい)らが高齢であるため、彼らの学問を伝える者がいなくなることを心配します。

そこで詔を下し、郎吏のうちで優れた才能を持ち、経義を理解できる者30人を選ばせ、光禄勲の高堂隆、散騎常侍の蘇林、博士の秦静に就き、四経と三礼(さんらい)を分担して学ばせるよう命じました。

四経は『左氏伝(さしでん)』『穀梁伝(こくりょうでん)』『古文尚書(こぶんしょうしょ)』『毛詩(もうし)』のこと。

三礼は『周礼(しゅらい)』『儀礼(ぎらい)』『礼記(らいき)』のこと。

一方、担当官吏には彼ら学生のための試験方法を整備するよう命じ、学生に対しては、経典(けいてん)を究めた者があれば、爵位や俸禄、栄誉や恩寵は期待せずとも訪れる、と励ましたそうです。

ところが、数年後に高堂隆らは死去し、ついに学問は廃れてしまったのだと。

高堂隆・蘇林・秦静のいずれも没年がはっきりしませんが、この記事からすると240年前後でしょうか?

それにしても、高堂隆の痛々しい諫言ぶりと、まったく聞こうとしない曹叡の態度の対比が際立っていました。

こうした様子からは、かえって魏と蜀呉(しょくご)との国力の差の大きさもうかがえました。

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