【姓名】 胡威(こい) 【あざな】 伯虎(はくこ)
【原籍】 楚国(そこく)寿春県(じゅしゅんけん)
【生没】 ?~280年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・胡質伝(こしつでん)』に付された「胡威伝」あり。
父子ともに清廉さをたたえられる
父は胡質だが、母は不詳。胡羆(こひ)は弟。息子の胡奕(こえき)は跡継ぎ。
250年、胡威は胡質が死去したため跡を継ぎ、陽陵亭侯(ようりょうていこう)に封ぜられた。
曹奐(そうかん)の咸熙(かんき)年間(264~265年)に徐州刺史(じょしゅうしし)に昇進し、特別の治績を上げて3郡の太守(たいしゅ)を歴任した。
胡威はそれぞれの任地で高い評判を得、(280年に)安定(あんてい)にいたとき亡くなったという。鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)の官位を追贈され、息子の胡奕が跡を継いだ。
管理人「かぶらがわ」より
本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く孫盛(そんせい)の『晋陽秋(しんようしゅう)』に、以下のような話がありました。
父の胡質が荊州刺史(けいしゅうしし)になると、胡威は都から荊州へ向かいます。家が貧しかったので車馬や従僕はなく、驢馬(ロバ)でのひとり旅だったそう。
こうして胡威は父に会った後、厩舎(きゅうしゃ)に10日余り泊めてもらい、帰京の挨拶をします。
別れに臨み、胡質が1匹の絹を道中の糧(かて)として与えたところ、胡威はひざまずき尋ねました。
「父上は清廉であられるのに、この絹をどこから手に入れられたのでしょうか?」
胡質から俸禄の余りだと言われたので、胡威も受け取って帰途に就きます。道中の宿では、いつも胡威は自分で驢馬を外し、薪(たきぎ)を採ってきて飯を炊いたという。
胡質の配下で都督(ととく)を務める男がおり、胡威と面識はなかったものの、休暇をもらい密かに旅の支度を整えます。
都督は100里ほど離れたところで胡威を出迎え、そのまま道連れになりました。事あるごとに胡威を助け、まれに飲食を勧めることもあったのだとか。
こうして数百里を旅した後、胡威は不審に思い、うまく問いかけて都督の正体を聞き出します。そして、父からもらった絹を謝礼に渡して帰らせました。
その後、別件で父に手紙を出したついでに、都督のことも伝えます。
すると胡質は都督を100回の杖打ちに処し、官吏の名簿から除いてしまったのでした。
この話は胡氏父子の清廉さや慎重さを示すものとして、いいエピソードという扱いでしたが、個人的には都督が気の毒に思えます。免職後のフォローはなかったのでしょうか?
『晋陽秋』には、胡威と晋(しん)の司馬炎(しばえん)とのやり取りもあり、官位は前将軍(ぜんしょうぐん)・青州刺史(せいしゅうしし)まで昇ったと書かれていました。
胡威が亡くなった280年は、晋の太康(たいこう)元年にあたります。
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