【姓名】 王異(おうい) 【あざな】 ?
【原籍】 ?
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 第202話で初登場。
【演義】 第064回で初登場。
【正史】 登場人物。
忠義は息子の命より重い
父母ともに不詳。趙昂(ちょうこう)は夫。趙月(ちょうげつ)という息子と趙英(ちょうえい)という娘がおり、このほかにもふたりの息子がいたことがうかがえる。
王異は趙昂が羌道令(きょうどうれい)となったとき一緒に行かず、西県(せいけん)に留め置かれた。
後に同郡(天水郡〈てんすいぐん〉)の梁双(りょうそう)が反乱を起こして西県を攻め取ると、王異の息子ふたりが殺害される。
王異は6歳になる娘の趙英とともに城内にいたが、息子たちが殺されたのを見て、梁双に乱暴されることを恐れた。
王異は剣を執り自害しようとしたが、趙英のことを考えて思いとどまる。そこで汚物を塗り付けた麻を羽織り、食事を減らして痩せてみせた。
春が過ぎ、冬になったころ梁双は州郡と和解し、王異は危難を免れる。趙昂から迎えの者が来ると、王異は趙英とともに発った。
ところが王異は趙昂の官舎の30里手前で立ち止まり、趙英に別れを告げて毒薬を飲む。これは、乱に遭いながら死ねなかったことを恥じての行為だった。
ちょうど解毒効果のある薬湯があったため、王異の口をこじ開けて注ぎ込むと、しばらくして息を吹き返した。
建安(けんあん)年間(196~220年)、趙昂は参軍事(さんぐんじ)に転じて冀県(きけん)へ移住する。
213年、冀城が馬超(ばちょう)の攻撃を受けると、王異も趙昂を助けて守備に加わる。また、帯びていた環状の玉や縫い取りのある衣服を差し出し、皆への賞賜に充てた。
いよいよ城内の者が飢えに苦しむと、涼州刺史(りょうしゅうしし)の韋康(いこう)は官民を哀れみ、馬超と和議を結ぼうとする。
趙昂は諫めたが聞き入れてもらえず、このことを帰ってから王異に話した。王異は和議に反対し、節義を守ってともに死ぬ覚悟を示す。
そこで趙昂も役所へ戻るが、もう韋康は馬超と和議を結んでいた。
だが、馬超は約束を破って韋康を殺害したうえ、趙昂を脅し、息子の趙月を人質として南鄭(なんてい)に差し出させる。それでも馬超は、まだ趙昂を信用しきれないでいた。
馬超の妻の楊氏(ようし)は、王異の節義ある行いを聞いていたので、あるとき彼女を招いて語り合う。
王異は巧みに受け答えをして気に入られ、楊氏と誼(よしみ)を結ぶ。
やがて趙昂が楊阜(ようふ)らとともに馬超討伐の計画を整えると、王異に趙月のことを相談した。
すると王異は、息子の命より忠義を重んずるべきだと言い、趙昂の決起を励ます。
翌214年、楊阜らの挙兵により、いったん馬超は漢中(かんちゅう)へ敗走したものの、張魯(ちょうろ)の兵を借りて引き返してくる。王異は趙昂とともに祁山(きざん)に立て籠もり、馬超軍に包囲された。
30日して援軍が着くと、ようやく包囲は解けたが、すでに趙月は馬超に殺されていた。
冀城から祁山までの一連の戦いにおいて、趙昂は9回にわたり奇計を立てたが、そのつど王異も参画したという。
管理人「かぶらがわ」より
上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・楊阜伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く皇甫謐(こうほひつ)の『列女伝(れつじょでん)』によるものです。
そこでは王異について、以下のようにもありました。
「趙昂の妻である異という者は、もと益州刺史(えきしゅうしし)で天水の趙偉璋(ちょういしょう)の妻であり、王氏の娘である」
ここにある趙偉璋という人物が、趙昂と別人なのかイマイチわかりません。趙昂も天水郡の人ですし、あざなは偉章だというので、おそらく同一人物かと。
当時の考え方では、王異の烈女ぶりは高く評価されるのでしょう。けれど、やはり人質になって殺された趙月が気の毒に思えました。
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