【姓名】 夏侯威(かこうい) 【あざな】 季権(きけん)
【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 第301話で初登場。
【演義】 第102回で初登場。
【正史】 登場人物。
夏侯淵(かこうえん)の四男
父は夏侯淵だが、母は不詳。夏侯衡(かこうこう)・夏侯霸(かこうは)・夏侯称(かこうしょう)は兄で、夏侯栄(かこうえい)・夏侯恵(かこうけい)・夏侯和(かこうか)は弟。夏侯駿(かこうしゅん)と夏侯荘(かこうそう)という息子がいた。
夏侯威は男気のあることで知られ、荊州刺史(けいしゅうしし)や兗州刺史(えんしゅうしし)を務め、曹叡(そうえい)の太和(たいわ)年間(227~233年)には関内侯(かんだいこう)に封ぜられた。
曹丕(そうひ)が五官将(ごかんしょう。五官中郎将〈ごかんちゅうろうしょう〉)だったころ(211~217年)、座にあった30余人の人相を朱建平(しゅけんぺい)に見させたことがあった。
この折、朱建平は夏侯威に言った。
「あなたは49歳で州牧(しゅうぼく)になられますが、そのとき災難があるでしょう。それをうまく切り抜けられれば公輔(こうほ。天子〈てんし〉の補佐役)の位に昇られ、70歳までは大丈夫でしょう」
後に夏侯威は兗州刺史となったが、49歳の12月上旬に病にかかる。彼は朱建平の言葉を思い出し、遺言をしたためたうえ葬儀の準備まで整えさせた。
ところが12月下旬に病状は快方へ向かい、ほぼ癒えたと言えるまで回復する。そこで大みそかの夕方に主だった部下を招き、酒席を設けて言った。
「私の病もようやく良くなり、明日の夜明けには50歳を迎える。朱建平が戒めた時期も無事に過ごせたということだ」
しかし酒席が果てて休もうとしたとき、夏侯威の病は再発し、そのまま夜半に死去してしまったという。
管理人「かぶらがわ」より
上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・夏侯淵伝)と裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く郭頒(かくはん)の『世語(せいご。魏晋世語〈ぎしんせいご〉)』および『三国志』(魏書・朱建平伝)によるものです。
文中に49歳や50歳という記述が見られますが、具体的に何年のことなのかはわかりませんでした。
夏侯威に関する特段の記事はなかったものの、兄弟が列挙されていたので拾っておきました。「朱建平伝」のネタのひとつとして使われた感じもします。
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