【姓名】 卞蘭(べんらん) 【あざな】 ?
【原籍】 琅邪郡(ろうやぐん)開陽県(かいようけん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。
いかさまの水など飲まぬ
父は卞秉(べんへい)だが、母は不詳。武宣卞皇后(ぶせんべんこうごう)は伯母にあたる。卞琳(べんりん)は弟。息子の卞暉(べんき)は跡継ぎで、卞隆(べんりゅう)も同じく息子。
卞蘭は卞秉が死去(時期は不明)したため跡を継ぎ、開陽侯に封ぜられた。
彼は若いころから学才を発揮し、奉車都尉(ほうしゃとい)・游撃将軍(ゆうげきしょうぐん)となり、さらに散騎常侍(さんきじょうじ)を加官された。
王太子(217~220年)の曹丕(そうひ)の美徳を賛美した賦(ふ)を献上して牛1頭を賜ったこともあり、曹丕は賦の内容こそ評価しなかったものの、このことから卞蘭を敬愛するようになったという。
やがて曹叡(そうえい)の時代(226~239年)になると、曹叡は蜀(しょく)や呉(ご)の対策を後回しにし、宮殿の造営ばかりに気を取られる。
この様子を見た卞蘭は、たびたび厳しい言葉で諫めた。曹叡は聞き入れはしなかったものの、彼の真心だけは受け入れていた。
後に卞蘭は苦酒(くしゅ。アルコール中毒)となり、消渇(しょうかつ。糖尿病)を患う。
このころ(235~238年ごろ)曹叡は巫女(みこ)による水療法を信じていたので、卞蘭のもとに祈とうした水を届けさせる。
しかし卞蘭は飲もうとせず、理由を尋ねる詔(みことのり)にこう答えた。
「病を治すのは薬であって、どうしてこのようなものが信用できましょうか」
曹叡は返答を聞いて顔色を変えたが、それでも卞蘭は水を飲まなかった。
結局、卞蘭は消渇が悪化して死去(時期は不明)し、息子の卞暉が跡を継ぐ。
当時の人々は、卞蘭が好んで直言するさまを見ていたので、曹叡から面詰されたため自殺したのだとうわさしたが、実際はそうではなかった。
管理人「かぶらがわ」より
上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武宣卞皇后伝)とその裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によるもの。
病気が治る水のくだりは笑うしかありませんけど、水を使ったこの手の話は現代まで絶えることなく続いています。
水資源は現代でも大切で、今後は世界中で争奪戦になることが予想されますが、卞蘭の病は苦酒と消渇ですからね……。
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