李福(りふく) ※あざなは孫徳(そんとく)

【姓名】 李福(りふく) 【あざな】 孫徳(そんとく)

【原籍】 梓潼郡(しとうぐん)涪県(ふうけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第309話で初登場。
【演義】 第104回で初登場。
【正史】 登場人物。

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劉禅(りゅうぜん)の勅使として諸葛亮(しょかつりょう)の遺命を聴く

父は李権(りけん)だが、母は不詳。李驤(りじょう)という息子がいた。

214年、劉備(りゅうび)が成都(せいと)で劉璋(りゅうしょう)を降した後、李福は書佐(しょさ)を経て、西充国相(せいじゅうこくしょう)や成都県令(せいとけんれい)を歴任する。

223年、李福は巴西太守(はせいたいしゅ)に転じ、江州督(こうしゅうとく)・楊威将軍(よういしょうぐん。揚威将軍)となり、後に中央へ入って尚書僕射(しょうしょぼくや)に任ぜられ、平陽亭侯(へいようていこう)に封ぜられた。

238年、大将軍(だいしょうぐん)の蔣琬(しょうえん)が漢中(かんちゅう)に進駐すると、李福は前監軍(ぜんかんぐん)・領司馬(りょうしば)となって随行したが、やがて死去(時期は不明)したという。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・楊戯伝〈ようぎでん〉)の『季漢輔臣賛(きかんほしんさん)』の陳寿(ちんじゅ)の注記によるものです。

その裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『益部耆旧雑記(えきぶききゅうざっき)』には、234年に諸葛亮が遠征先の武功(ぶこう)で危篤に陥った際、李福が劉禅の勅使として遣わされた話が見えました。

李福は劉禅の意向を伝え、諸葛亮の考えを聴くと、いったん辞去します。

ですが数日して、聴くべきことを聴いていなかったことに気づき、諸葛亮のところへ戻ってきました。

諸葛亮は李福が戻ってきた理由を察しており、自身の後継者候補に蔣琬と費禕(ひい)の名を挙げたので、李福も勅使の務めを果たすことができたのだとか。

この話は『三国志演義』(第104回)や吉川『三国志』(第309話)でも使われていました。

事実がどうだったのかはわかりませんけど、もし『益部耆旧雑記』の記事がなかったら、李福は物語のほうに登場しなかったかもしれませんね。

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