【姓名】 朱然(しゅぜん) 【あざな】 義封(ぎほう)
【原籍】 丹楊郡(たんようぐん)故鄣県(こしょうけん)
【生没】 182~249年(68歳)
【吉川】 第232話で初登場。
【演義】 第075回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・朱然伝』あり。
呉軍の中核を担った名将
父は施氏(しし)、母は朱氏。朱治(しゅち)は叔父。息子の朱績(しゅせき。施績〈しせき〉)は跡継ぎ。
194年、施然(しぜん。朱然)は13歳で叔父の朱治の養子となる。彼は同い年の孫権(そんけん)とともに学んだことがあり、ふたりは恩愛で結ばれた間柄だった。
200年、孫策(そんさく)が急死して孫権が跡を継ぐと、朱然は余姚県長(よようけんちょう)に任ぜられる。
後に山陰県令(さんいんけんれい)に昇進して折衝校尉(せっしょうこうい)の官位を加えられ、5県の取り締まりにあたった。
さらに孫権から高い評価を受け、丹楊郡を分割して新設された臨川郡(りんせんぐん)の太守(たいしゅ)に任ぜられ、2千の兵を授かる。
ちょうど山越(さんえつ。江南〈こうなん〉に住んでいた異民族)の不服従民が盛んに蜂起していたため、朱然は討伐に向かい、ひと月ほどで平定した。
212年、曹操(そうそう)が濡須(じゅしゅ)に侵攻してくると、朱然は大塢(だいう。濡須塢)や三関屯(さんかんとん。東興関〈とうこうかん〉)の防備にあたり、偏将軍(へんしょうぐん)に任ぜられた。
219年、孫権が荊州(けいしゅう)の関羽(かんう)討伐に乗り出すと、朱然は潘璋(はんしょう)とともに敵の退路を断つべく臨沮(りんしょ)まで進み、関羽らの捕縛に貢献する。
朱然は功により昭武将軍(しょうぶしょうぐん)に昇進し、西安郷侯(せいあんきょうこう)に封ぜられた。
この年、朱然は急死した呂蒙(りょもう)の任務を引き継ぎ、仮節(かせつ)となり、江陵(こうりょう)の鎮守を命ぜられた。
222年、蜀(しょく)の劉備(りゅうび)が宜都(ぎと)まで侵攻してくると、朱然は5千の軍勢をひきい、陸遜(りくそん)と協力して防戦にあたる。
朱然は別動部隊となって蜀軍の先鋒を撃破したうえ、その退路を遮断。陸遜の火計を受けた劉備は大敗し、白帝(はくてい)へ敗走する。
朱然は功により征北将軍(せいほくしょうぐん)に昇進し、永安侯(えいあんこう)に爵位が進む。
この年、魏(ぎ)の曹真(そうしん)・夏侯尚(かこうしょう)・張郃(ちょうこう)らが江陵に攻め寄せ、曹丕(そうひ)自身も宛(えん)まで親征してくる。
孫権配下の孫盛(そんせい)が1万の軍勢をひきいて救援に駆けつけ、百里洲(ひゃくりす。長江〈ちょうこう〉の中州)に砦(とりで)を設けた。
ところが張郃の攻撃を受けて砦を奪われ、孫盛は退却。江陵の朱然は城外との連絡を断たれる。
それでも朱然は城を守り抜き、ついに魏軍が撤退。一連の攻防戦で彼の名は魏まで轟(とどろ)くようになり、当陽侯(とうようこう)に移封された。
227年、朱然は孫権に付き従い、魏の石陽(せきよう)を攻める。
引き揚げの際に潘璋が殿軍(しんがり)を務めたが、夜襲を受けて混乱。朱然は速やかに引き返して敵を食い止めたうえ、先発した船が遠く離れるのを待って帰還した。
229年、朱然は車騎将軍(しゃきしょうぐん)・右護軍(ゆうごぐん)に任ぜられ、兗州牧(えんしゅうぼく)を兼ねる。
なおこの年、呉と蜀との間で盟約が結ばれ、兗州が蜀に属することになると、兗州牧の任は解かれた。
234年、孫権は蜀と示し合わせ、魏に対する大規模な攻撃を計画する。
孫権自ら合肥新城(ごうひしんじょう)に向かい、朱然と全琮(ぜんそう)は斧鉞(ふえつ。軍事裁判権を持つしるし)を授かり、それぞれ左督(さとく)と右督(ゆうとく)として軍勢を指揮した。
しかし、軍吏や兵士の間に疫病が広がり、呉軍は攻撃を仕掛ける前に引き揚げた。
237年、朱然は柤中(そちゅう)に軍勢を進め、魏将の蒲忠(ほちゅう)ひきいる数千の軍勢を撃退した。
★本伝には赤烏(せきう)5(242)年のこととあるが、裴松之注(はいしょうしちゅう)で指摘されている通り、嘉禾(かか)6(237)年のことだと思われる。呉の嘉禾6年は魏の景初(けいしょ)元年にあたる。
246年、朱然は再び柤中に軍勢を進め、魏将の李興(りこう)らひきいる歩騎6千を撃破して帰還する。
この年、朱然は左大司馬(さだいしば)・右軍師(ゆうぐんし)に任ぜられた。
249年、朱然は68歳で死去し、息子の朱績が跡を継いだ。彼の死に際し、孫権は喪服を着けて哭礼(こくれい。大声を上げて泣く礼)を行ったという。
管理人「かぶらがわ」より
本伝によると、朱然は身長が7尺(せき)に足りないほどでしたが、さわやかで細かいことにこだわらない性格だったそうです。
そして日ごろから清潔な行いを心がけ、軍器だけは飾り立てたものの、そのほかはみな質素な道具を使っていました。
また日々の職務に励み、緊急時でも落ち着いている様子は、誰にもまねのできないものだったといいます。
これに加えて普段から非常召集の訓練を怠らなかったため、戦うたびに手柄を立てることができたのだとも。
245年に陸遜が死去すると、功臣や名将の生き残りは朱然ひとりとなり、彼に対する礼遇がほかに並ぶもののないほど手厚いものになりました。
朱然と孫権は10代のころからの付き合いですので、この扱いもうなずけますね。
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