【姓名】 袁氏(えんし) ※名とあざなは不詳
【原籍】 汝南郡(じょなんぐん)汝陽県(じょようけん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。
呉(ご)の孫権(そんけん)の側室、袁夫人(えんふじん)
父は袁術(えんじゅつ)だが、母は不詳。袁燿(えんよう)は兄弟。
199年に袁術が亡くなると、袁氏は母や兄弟たちとともに、廬江太守(ろこうたいしゅ)の劉勲(りゅうくん。袁術の臣下だったことがある)のもとへ身を寄せた。
ほどなく孫策(そんさく)が劉勲を討ち破ると、今度は孫策の世話になり、その後、孫権の後宮へ入ることになった。
孫権に寵愛されたものの、子は生まれず、やがて潘氏(はんし)の讒言(ざんげん)を受けて死に追いやられた。
管理人「かぶらがわ」より
登場箇所が少ないためコメントしにくいです。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫権潘夫人伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く張勃(ちょうぼつ)の『呉録(ごろく)』によると、「袁氏は行いの正しい女性だったが、子はできなかった。孫権は、側室に生まれた子を何度か袁氏に預けて養育させたが、いつも育たなかった」ということです。
また、238年に歩氏(ほし)が亡くなると、孫権は袁氏を皇后に立てようとしましたが、彼女は子がないことを理由に辞退したのだとか。
父の袁術は皇帝を僭称(せんしょう)したほどの野心家でしたが、娘の袁氏は、そのあたりをよくわきまえた女性だったらしい。
さらに『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・袁術伝)によると、「兄弟の袁燿も孫権から郎中(ろうちゅう)に任ぜられ、その娘(袁氏の姪)は孫権の息子の孫奮(そんふん)に嫁いだ」といいます。
孫策や孫権は袁術の死後も、その息子や娘を礼遇していたということですね。
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