【姓名】 孫皎(そんこう) 【あざな】 叔朗(しゅくろう)
【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)
【生没】 ?~219年(?歳)
【吉川】 第232話で初登場。
【演義】 第075回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫静伝(そんせいでん)』に付された「孫皎伝」あり。
孫静の息子
父は孫静だが、母は不詳。孫暠(そんこう)と孫瑜(そんゆ)は兄で、孫奐(そんかん)と孫謙(そんけん)は弟。
跡継ぎの孫胤(そんいん)をはじめ、孫晞(そんき)・孫咨(そんし)・孫弥(そんび)・孫儀(そんぎ)という5人の息子がいた。
初め孫皎は、護軍校尉(ごぐんこうい)に任ぜられて2千余の兵を預かる。
このころ曹操(そうそう)がしばしば濡須(じゅしゅ)へ軍勢を送り込んでいたが、そのたびに孫皎が駆けつけて防いだため、彼の軍は精鋭ぞろいだと評判になった。
都護(とご)・征虜将軍(せいりょしょうぐん)に昇進すると、程普(ていふ)に代わって夏口(かこう)の守備にあたった。
215年に兄の孫瑜と黄蓋(こうがい)が亡くなると、ふたりの配下の軍勢も併せて指揮を執った。
孫権(そんけん)から、沙羡(さい)・雲杜(うんと)・南新市(なんしんし)・竟陵(きょうりょう)の地を奉邑(ほうゆう)に賜り、各地の長吏(ちょうり。県令〈けんれい〉や県長〈けんちょう〉)を選んで経営に充てた。
孫皎は人々に財貨を惜しまず施し、広く交友関係を築いた。
中でも諸葛瑾(しょかつきん)とは特に親しく、廬江(ろこう)の劉靖(りゅうせい)には情勢判断を、江夏(こうか)の李允(りいん)には事務を、広陵(こうりょう)の呉碩(ごせき)と河南(かなん)の張梁(ちょうりょう)には軍事を、それぞれ任せた。
孫皎が親身になって待遇したため、みな全力で職務に尽くしたという。
219年に呂蒙(りょもう)が南郡(なんぐん)を攻めたとき、孫皎は孫権の命を受けて後詰めを務め、関羽(かんう)の捕縛や荊州(けいしゅう)の平定に貢献した。
この219年のうちに死去したが、孫権は生前の孫皎の功績を評価し、息子の孫胤を丹楊侯(たんようこう)に封じた。
管理人「かぶらがわ」より
孫皎は人の心をつかむのがうまかったようです。本伝には、あるとき孫皎が偵察兵を出した際の話として、こういうエピソードもありました。
この兵士は、魏(ぎ)の辺境守備の部将や軍吏のもとにいた美女を連れ帰り、孫皎に差し出します。
「しかし孫皎は、これらの美女を着替えさせて送り帰したうえ、こう命じた。『いま誅伐しようとしているのは曹氏である。民に何の罪があろう。今後は老幼の者に危害を加えてはならない』」
「こうしたこともあり、長江(ちょうこう)から淮水(わいすい)の一帯では、孫皎のもとに身を寄せる者が多くなった」のだと。
同じく本伝には、ささいなことから孫皎と甘寧(かんねい)が大喧嘩(おおげんか)した話もありました。
「甘寧は、たとえ孫皎が公子だとしても、(孫権の)臣下である自分と同列のはずだと言い、孫皎の侮辱的な態度に腹を立てた」
「この話を聞いた孫権は手紙を書き、それを諸葛瑾に届けてもらい孫皎を諭した。手紙を受け取った孫皎は上疏して陳謝し、以後は甘寧と厚い交わりを結んだ」のだと。
孫権の手紙には、酒席で酔った孫皎が甘寧を侮辱したため、甘寧が孫皎のもとを離れ、呂蒙の指揮下に入りたいと願い出てきたことも書かれていました。
さすがの孫皎にもこういうところがあったと……。それでも、諭されてすぐに態度を改めたのだから、やはりデキる男だったのでしょう。
南郡を攻めたとき、孫権は呂蒙とともに孫皎も指揮官として起用し、左軍と右軍をそれぞれに任せようとしました。
すると呂蒙は、江陵(こうりょう)攻め(赤壁〈せきへき〉の戦い)で周瑜(しゅうゆ)と程普が左軍と右軍の指揮官となり、国家の大事を損ないかけた、という例を持ち出して再考を求めます。
孫権も気づいて、呂蒙を総指揮官とする一方、孫皎には後詰めを命じました。その結果、関羽らの捕縛や荊州平定を果たすことができたわけです。
いくら優れていても、船頭がふたりいたのでは、うまくいくものもいかなくなってしまうということか。
孫皎の生年はわかりませんが、次兄の孫瑜は177年生まれです。
仮に孫皎が178年に生まれて219年に死去したとすると、享年は42になります。ただ、弟の孫奐は195年生まれなので、孫皎の生年は想定しにくいですね。
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