孫奮(そんふん) ※あざなは子揚(しよう)

【姓名】 孫奮(そんふん) 【あざな】 子揚(しよう)

【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫奮伝』あり。

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呉(ご)の孫権(そんけん)の息子、斉王(せいおう)、章安侯(しょうあんこう)

父は孫権、母は仲氏(ちゅうし)。

孫登(そんとう)・孫慮(そんりょ)・孫和(そんか)・孫霸(そんは)は兄で、孫休(そんきゅう)と孫亮(そんりょう)は弟。孫魯班(そんろはん)と孫魯育(そんろいく)に加え、劉纂(りゅうさん)に嫁いだ姉妹もいた。

名は不詳だが、5人の息子がいたことがうかがえる。

252年1月、孫奮は斉王に封ぜられて武昌(ぶしょう)に住んだ。

同年4月、孫権が崩御(ほうぎょ)し、弟の孫亮が帝位を継いだ。

遺詔によって実権を握った太傅(たいふ)の諸葛恪(しょかつかく)は、諸王が長江(ちょうこう)沿いの軍事的な要地にいることを好まず、孫奮を豫章(よしょう)へ移そうとした。

しかし孫奮は腹を立てて従わず、しばしば法をないがしろにする。

諸葛恪が手紙を送って諫めると、恐れを抱いた孫奮は南昌(なんしょう)へ移った。それでも頻繁に狩猟に出かけて、属官をひどく苦しめたという。

翌253年10月、孫亮が孫峻(そんしゅん)と計って諸葛恪を誅殺すると、孫奮は長江を下って蕪湖(ぶこ)に留まり、あわよくば建業(けんぎょう)へ乗り込み、事の成り行きに乗じようとした。

傅相(ふしょう)の謝慈(しゃじ)らが諫めたが、孫奮は彼らを殺害する。孫奮はこのことで罪に問われ、身分を貶(おと)して庶民とされ、章安県へ移された。

258年になり、孫奮は孫亮の詔(みことのり)によって改めて章安侯に封ぜられた。

270年、孫晧(そんこう)の左夫人(さふじん)だった王氏(おうし)が死去する。孫晧は悲しみに耐えられず、数か月も人前に姿を見せなかった。

そのため呉の人々は「孫晧が死んでしまったのだ」とか「章安侯の孫奮か上虞侯(じょうぐこう)の孫奉(そんほう)が帝位に即くだろう」などとうわさした。

孫奮の母である仲氏の墓が豫章にあった。豫章太守(よしょうたいしゅ)の張俊(ちょうしゅん)は、うわさを信じて仲氏の墓を掃除させた。

この話を聞いた孫晧は激怒し、張俊を車裂きにしたうえ一族をも皆殺しにした。さらに孫奮と5人の息子たちを誅殺し、封国を廃した。

管理人「かぶらがわ」より

孫奮が孫晧に誅殺された時期がイマイチはっきりしません。本伝からは270年の出来事とも受け取れますが……。

『三国志』(呉書・孫晧伝)には、鳳皇(ほうおう。鳳凰)3(274)年の出来事として次のような記事があります。

「会稽郡(かいけいぐん)で『章安侯の孫奮が天子(てんし)になるだろう』という妖言が広まった。またこのころ臨海太守(りんかいたいしゅ)の奚熙(けいき)は、会稽太守の郭誕(かくたん)に書簡を送って国政を非難した」

「郭誕は孫晧に、奚熙の(国政を非難した)書簡のことは上言したが、(孫奮が天子になるだろうという)妖言については上言しなかったということで、建安(けんあん)へ送られて船を造る労役に充てられた」

「一方で孫晧は三郡督(さんぐんとく)の何植(かしょく)を遣わし、奚熙を捕らえようとしたが、奚熙は兵を集めて守りを固め、海路を遮断した」

「ところが、奚熙の子飼いの兵が奚熙を殺害した。奚熙の首は建業へ送られ、その一族も皆殺しになった」というもの。

この274年の記事にも章安侯の孫奮が登場しているわけです。そうなると孫奮の誅殺は270年ではないことになりますから、ここは疑問が残りました。何か見落としている記事があるのか、解釈が誤っているところがあるのか?

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