-160年- 庚子(こうし)
【漢】 延熹(えんき)3年 ※桓帝(かんてい。劉志〈りゅうし〉)
月別および季節別の主な出来事
【01月】
丙申(へいしん)の日(1日)
桓帝が大赦を行う。
『後漢書(ごかんじょ)』(桓帝紀〈かんていぎ〉)
【01月】
丙午(へいご)の日(11日)
車騎将軍(しゃきしょうぐん)の単超(ぜんちょう)が死去する。
『後漢書』(桓帝紀)
⇒01月
新豊侯(しんぽうこう)の単超が死去する。桓帝から玉衣などが下賜され、盛大な葬儀が行われた。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表
【閏01月】
焼何羌(しょうかきょう)が反乱を起こし、張掖郡(ちょうえきぐん)に侵攻する。護羌校尉(ごきょうこうい)の段熲(だんけい)が、積石山(せきせきざん)でこれを大破した。
『後漢書』(桓帝紀)
【閏01月】
白馬県令(はくばけんれい)の李雲(りうん)が、直諫の罪により投獄されて獄死する。
『後漢書』(桓帝紀)
【04月】
桓帝のもとに、「上郡(じょうぐん)で甘露(かんろ)が降った」との報告が届く。
『後漢書』(桓帝紀)
【05月】
甲戌(こうじゅつ)の日(11日)
漢中郡(かんちゅうぐん)で山崩れが起こる。
『後漢書』(桓帝紀)
【06月】
辛丑(しんちゅう)の日(9日)
司徒(しと)の祝恬(しゅくてん)が死去する。
『後漢書』(桓帝紀)
【07月】
桓帝が、司空(しくう)の盛允(せいいん)を司徒に、太常(たいじょう)の虞放(ぐほう)を司空に、それぞれ任ずる。
『後漢書』(桓帝紀)
【07月】
長沙蛮(ちょうさばん)が郡界に侵攻する。
『後漢書』(桓帝紀)
【09月】
泰山郡(たいざんぐん)と琅邪郡(ろうやぐん)の賊である労丙(ろうへい)らが再び反乱を起こし、民から略奪を働く。桓帝は、御史中丞(ぎょしちゅうじょう)の趙某(ちょう? 名は不明)に節(せつ。使者のしるし)を持たせて遣わし、州郡の兵を指揮させて討伐した。
『後漢書』(桓帝紀)
★『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡本秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ・まさのり〉編 汲古書院)の補注によると、「労丙は琅邪の賊。泰山の賊である叔孫無忌(しゅくそんぶき)と蜂起。都尉(とい)の侯章(こうしょう)を殺害し、琅邪の属県を荒らした。討寇中郎将(とうこうちゅうろうしょう)の宗資(そうし)の討伐を受けて平定された」という。
【09月】
丁亥(ていがい)の日(26日)
桓帝が詔(みことのり)を下し、「特定の職務のない官については、臨時の措置として俸禄の支給を停止し、豊作の年が来ればもとに戻す」とする。
『後漢書』(桓帝紀)
【11月】
日南郡(にちなんぐん)の蛮賊が、一族をひきいて郡に降る。
『後漢書』(桓帝紀)
【11月】
勒姐羌(ろくしゃきょう)が允街県(いんがいけん)を包囲したものの、段熲がこれを討ち破る。
『後漢書』(桓帝紀)
【11月】
泰山の賊である叔孫無忌が、都尉の侯章を殺害する。
『後漢書』(桓帝紀)
【12月】
中郎将の宗資が泰山郡に遣わされ、叔孫無忌を討ち破る。
『後漢書』(桓帝紀)
★『全譯後漢書 第2冊』の補注によると「叔孫無忌は泰山の賊。琅邪の賊である労丙らとともに蜂起し、都尉の侯章を殺害。泰山の険阻に拠り、討寇中郎将の宗資の討伐も退けた。のち衛羽(えいう)の説得によって投降した」という。
【12月】
武陵蛮(ぶりょうばん)が江陵国(こうりょうこく)に侵攻したものの、車騎将軍の馮緄(ふうこん)が討伐にあたり、これを降伏させる。
『後漢書』(桓帝紀)
【12月】
荊州刺史(けいしゅうしし)の度尚(たくしょう)が長沙蛮の討伐にあたり、これを平定する。
『後漢書』(桓帝紀)
特記事項
「この年(160年)に生まれたとされる人物」
卞氏(べんし)B ※曹操(そうそう)の妻
コメント ※下部にある「コメントを書き込む」ボタンをクリック(タップ)していただくと入力フォームが開きます