【姓名】 臧洪(そうこう) 【あざな】 子源(しげん)
【原籍】 広陵郡(こうりょうぐん)射陽県(しゃようけん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・臧洪伝』あり。
旧主へ尽くした忠義の代償は1万人近い官民
父は臧旻(そうびん)だが、母は不詳。
臧洪は体格や容貌が優れており、人並み外れて立派だった。孝廉(こうれん)に推挙されて郎(ろう)となった。
当時は三署(五官中郎署〈ごかんちゅうろうしょ〉・左中郎署〈さちゅうろうしょ〉・右中郎署〈ゆうちゅうろうしょ〉)の郎から、県長(けんちょう)を選んで任命するのが通例だった。
趙昱(ちょういく)が莒県長(きょけんちょう)に、劉繇(りゅうよう)が下邑県長(かゆうけんちょう)に、王朗(おうろう)が菑丘県長(しきゅうけんちょう)に、それぞれ任ぜられると、臧洪も即丘県長(そくきゅうけんちょう)に任ぜられた。
霊帝(れいてい。在位168~189年)の末年に官位を捨てて帰郷したところ、広陵太守(こうりょうたいしゅ)の張超(ちょうちょう)から招かれ、功曹(こうそう)となった。
189年9月、董卓(とうたく)が少帝(しょうてい)を廃して弘農王(こうのうおう)に貶(おと)し、翌190年2月には殺害した。
臧洪が決起を促すと、張超は軍勢をひきいて陳留(ちんりゅう)へ行き、兄で陳留太守の張邈(ちょうばく)とともに挙兵した。
張邈と張超の兄弟、臧洪と親しかった兗州刺史(えんしゅうしし)の劉岱(りゅうたい)と豫州刺史(よしゅうしし)の孔伷(こうちゅう)、これに東郡太守(とうぐんたいしゅ)の橋瑁(きょうぼう)を加え、壇を築いて董卓討伐の誓約を行うことになった。
このときみな互いに儀式の進行役を譲り合い、そろって臧洪を推す。そこで彼がその役目を引き受けた。ところがしばらくすると、諸侯の中に率先して進撃しようとする者がおらず、兵糧も底を突いたため、連合軍は解散してしまった。
翌191年?、臧洪は張超の命を受け、大司馬(だいしば)の劉虞(りゅうぐ)のもとへ遣わされる。
しかし、公孫瓚(こうそんさん)の劉虞攻めにぶつかったり、河間(かかん)では公孫瓚と袁紹(えんしょう)の交戦に遭遇したため、使命を果たすことはできなかった。
それでも臧洪は、袁紹と会見して高く評価され、友好関係を結んだ。ちょうど青州刺史(せいしゅうしし)の焦和(しょうか)が亡くなったので、袁紹は臧洪に青州を治めさせた。
臧洪が青州に在任した2年の間に、盗賊はすっかり駆逐された。袁紹は臧洪の手腕に感嘆し、東郡太守に転任させて東武陽(とうぶよう)に役所を置かせた。
194年、再び曹操(そうそう)が陶謙(とうけん)討伐に赴いた際、張超が陳宮(ちんきゅう)らと結託して曹操に背いた。張邈も陳宮の進言に従い、呂布(りょふ)を迎えて兗州牧(えんしゅうぼく)とし、濮陽(ぼくよう)に立て籠もった。
翌195年、呂布が定陶(ていとう)や鉅野(きょや)で曹操に敗れ、さらに東へ逃げて徐州の劉備(りゅうび)を頼った。張邈は呂布に付き従う一方、張超に命じ、家族とともに雍丘(ようきゅう)を守らせた。
同年8月、雍丘にいた張超が曹操に包囲された。臧洪は、張超を救援するための兵馬を貸してほしいと頼んだが、袁紹は許可しなかった。そうしているうち、12月に雍丘が陥落し、張超は自殺した。
このことから、臧洪は袁紹と絶交。袁紹は軍勢を出して臧洪を包囲したが、年を経ても陥落させることができなかった。
袁紹は、臧洪と同郷の陳琳(ちんりん)に手紙を書かせ、抵抗と帰順の利害について説き、これまでの恩義に背いたことを非難した。
臧洪は返書を送って自分の考えを述べたが、袁紹はこの陳琳あての返書を読み、彼に降伏する意思がないことを知る。
袁紹が兵を増やして攻め立てると、臧洪は敗北を覚悟し、城内の官民に脱出するよう勧めた。ところが誰ひとり応ずる者はおらず、結局7、8千人が枕を並べて討ち死にした。
臧洪は生け捕りにされたが、あくまで袁紹の態度を非難し続けた。袁紹は臧洪を許して用いることを諦め、ついに処刑した。
管理人「かぶらがわ」より
本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く徐衆(じょしゅう)の『三国評(さんごくひょう)』では、「張超だけでなく、袁紹もまた臧洪を認めた親友であり、彼を青州や東郡の長官に引き上げてくれた」という点を指摘。
「主君と臣下とは言えないまでも、一応は袁紹の任命を受けた以上、臧洪は道義的に袁紹を裏切れないはずだ」と述べています。
また「このころ袁紹と曹操は友好関係を結び、帝室を補佐していたが、呂布のほうは付いたり離れたりを繰り返し、道義心もなく、反逆を意図するところがあった」。
「張邈と張超の兄弟は呂布を迎え、勝手に兗州牧として立てた。これは国法から言えば、単なる罪人にすぎない」
「そのため曹操が張超を討伐し、袁紹が張超の救援を許可しなかったことは、道理に外れているとは言えない。臧洪は袁紹に、張超の救援を乞うべきではなかったし、このことから袁紹と仇敵(きゅうてき)になるべきではなかったのだ」とも。
そして「臧洪が力不足だったのなら、他国へ逃亡して救援を要請することもできたし、袁紹の隙を見つけ、張超に命を捧げることもできた」として、臧洪が、孤立無援の城を守り抜こうとして強硬な態度を取り続けたことに、疑問を投げかけていました。
こういう見方が普通なのでしょうが、臧洪は旧恩があった張超を死なせたくなかっただけで、その反乱を助けようという意図はなかったと思うのですよね。
それでもこの件がきっかけとなり、7、8千人もの官民が死ぬことになったのは事実。袁紹への抵抗を続けたことがよかったとも思えない。
結局、袁紹の任命を受けたのがまずかったのかもしれません。もし張超のもとへ戻っていたら、そのあと臧洪はどうなっていたのでしょうか?
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