-167年- 丁未(ていび)
【漢】 (延熹〈えんき〉10年) → 永康(えいこう)元年 ※桓帝(かんてい。劉志〈りゅうし〉)
月別および季節別の主な出来事
【01月】
先零羌(せんれいきょう)が三輔(さんぽ。長安〈ちょうあん〉を中心とする地域)に侵攻したものの、中郎将(ちゅうろうしょう)の張奐(ちょうかん)が討伐にあたり、これを平定する。
『後漢書(ごかんじょ)』(桓帝紀〈かんていぎ〉)
【01月】
当煎羌(とうせんきょう)が武威郡(ぶいぐん)に侵攻したものの、護羌校尉(ごきょうこうい)の段熲(だんけい)が鸞鳥県(らんちょうけん)まで追撃し、これを大破する。西羌はことごとく平定された。
『後漢書』(桓帝紀)
★鸞鳥県について、李賢注(りけんちゅう)では「鸞は音が雚(かん)である」とあり、『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡本秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ・まさのり〉編 汲古書院)もこれに従い、「かんちょうけん」とルビを振っている。
ただ、ほかに「鸞」が用いられている記事では「らん」と読んでいるものもあり、判断が難しい。音注がある以上は「かんちょうけん」とすべきだろうが、このサイトでは別の記事との兼ね合いを考えて「らんちょうけん」としておく。
【01月】
夫余王(ふよおう)が玄菟郡(げんとぐん)に侵攻したものの、玄菟太守(げんとたいしゅ)の公孫域(こうそんいき)が撃退する。
『後漢書』(桓帝紀)
★『全譯後漢書 第2冊』の補注によると「公孫域は『三国志』(公孫度伝〈こうそんたくでん〉)では公孫琙(こうそんよく)とある」という。
⇒?月
扶余王(ふよおう。夫余王)の夫台(ふたい)が玄菟郡に侵攻する。玄菟太守の公孫域がこれを討ち破った。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表
【04月】
先零羌が再び三輔に侵攻する。
『後漢書』(桓帝紀)
【05月】
丙申(へいしん)の日(14日)
洛陽(らくよう)および上党郡(じょうとうぐん)で地割れが起こる。
『後漢書』(桓帝紀)
【05月】
廬江郡(ろこうぐん)の賊が蜂起し、郡界に侵攻する。
『後漢書』(桓帝紀)
【05月】
壬子(じんし)の日(30日)、晦(かい)
日食が起こる。これを受けて、桓帝が三公・九卿(きゅうけい)・校尉(こうい)に詔(みことのり)を下し、賢良方正(けんりょうほうせい)を推挙させた。
『後漢書』(桓帝紀)
【?月】
竇武(とうぶ)が桓帝に上疏し、党人(とうじん)を弁護する。
『正史 三国志8』の年表
【06月】「党錮(とうこ)の解除と漢(かん)の改元」
庚申(こうしん)の日(8日)
桓帝が大赦を行い、ことごとく党錮を解除したうえ、「延熹」を「永康」と改元する。
『後漢書』(桓帝紀)
★李賢注(りけんちゅう)によると「このとき李膺(りよう)らが取り調べの供述の中で、頻繁に宦官(かんがん)の子弟の名を引き合いに出した。多くの宦官は自分に罪が及ぶことを恐れ、桓帝に、『天の時によって恩赦をお与えになりますように』と願い出て容れられた。このために党錮が解かれたのである」という。
⇒06月
桓帝が党人たちを釈放し、「延熹」を「永康」と改元する。党人たちは故郷に帰され、終身禁錮となった(「第一次の党錮事件」)。
『正史 三国志8』の年表
⇒06月
桓帝が、「延熹」を「永康」と改元する。党人は竇武の弁護によって死を免れ、郷里において終身禁錮となった(「第一次党錮」)。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表
【06月】
丙寅(へいいん)の日(14日)
阜陵王(ふりょうおう)の劉統(りゅうとう)が薨去(こうきょ)する。
『後漢書』(桓帝紀)
【08月】
桓帝のもとに、「魏郡(ぎぐん)で嘉禾(かか。穂がたくさん付いた、おめでたい穀物)が生え、甘露(かんろ)が降った」との報告が届く。
『後漢書』(桓帝紀)
【08月】
桓帝のもとに、「巴郡(はぐん)で黄龍が現れた」との報告が届く。
『後漢書』(桓帝紀)
★ここで李賢注は、『続漢書(しょくかんじょ)』(五行志〈ごぎょうし〉)から「沱水(だすい)で水浴びをしようとした者の話」を引き、「桓帝の政教は欠け衰えているのに、瑞祥(ずいしょう)の報告が多いのは、ほとんど時の史官が帝紀に虚報を記したものである」と断じている。
【08月】
6州で水害が起こり、勃海郡(ぼっかいぐん)では津波の被害も出る。
桓帝は州郡に詔を下し、「7歳以上の溺死者ひとりにつき、2千銭を遺族に下賜せよ。一家ごと被害に遭っている場合は官ですべて埋葬せよ。食糧を流された者には、ひとりにつき3斛(ごく)ずつ下賜せよ」とした。
『後漢書』(桓帝紀)
【冬】
病床にある桓帝が、寵愛している田聖(でんせい)ら9人をみな貴人(きじん。皇妃の位のひとつ)とする。
『後漢書』(竇皇后紀〈とうこうごうぎ〉)
【10月】
先零羌が、またも三輔に侵攻したものの、使匈奴中郎将の張奐が撃破する。
『後漢書』(桓帝紀)
【11月】
桓帝のもとに、「西河郡(せいかぐん)で白兎(はくと)が現れた」との報告が届く。
『後漢書』(桓帝紀)
【12月】
壬申(じんしん)の日(23日)
桓帝が、先に罪を得て癭陶王(えいとうおう)に降格していた劉悝(りゅうかい)を許し、再び勃海王に封ずる。
『後漢書』(桓帝紀)
【12月】「桓帝の崩御(ほうぎょ)」
丁丑(ていちゅう)の日(28日)
桓帝が徳陽前殿(とくようぜんでん)で崩御する。このとき36歳だった。
『後漢書』(桓帝紀)
【12月】
戊寅(ぼいん)の日(29日)
竇皇后(とうこうごう)が皇太后と尊称され、臨朝することになる。
『後漢書』(桓帝紀)
【?月】
この年、桓帝が、博陵(はくりょう)・河間(かかん)の両郡の租税を免除することを決める。これは漢の高祖(こうそ)劉邦(りゅうほう)の生地である、豊(ほう)と沛(はい)の例に倣った措置だった。
『後漢書』(桓帝紀)
特記事項
この年は特になし。
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