劉備(りゅうび)は楼桑村(ろうそうそん)に帰り着き、母との再会を果たした。
それから3、4年が経った春のある日、魯(ろ)の李定(りてい)と名乗る老人がやってきて劉備の家にある桑の大木を眺め、予言めいた話を聞かせる。
第005話の展開とポイント
(01)楼桑村
ようやく楼桑村へ帰り着いた劉備。城門の番人から、このごろ顔を見せなくなったという彼の母が、患って寝ているらしいと聞かされ帰路を急ぐ。
(02)楼桑村 劉備の家
劉備は自宅に戻ったが、召し使いの老婆や下僕(しもべ)の姿が見えない。そして、母の部屋にだけあった箪笥(たんす)や寝台もなくなっていた。
劉備は薄暗い灯火の下、ひとりで蓆(むしろ)を織っていた母の姿を見つける。
話を聞くと、箪笥や寝台は黄匪(こうひ。黄巾賊〈こうきんぞく〉)討伐のための軍費として税吏に持っていかれたこと。召し使いの老婆(婆や)は息子が黄匪の仲間に入っているという疑いで捕縛されたこと。若い下僕は兵隊として取られたことがわかった。
自分の留守中、思わぬ苦労をかけたことを知り、足下にひれ伏して詫びる劉備。
母は自分の部屋の床下に隠しておいた瓶(かめ)から粟(アワ)などを取り出し、それを煮ると、ふたりで貧しい食卓を囲んだ。
そこで劉備が素晴らしいお土産を買ってきたと話す。しばらくのやり取りの後、お土産が洛陽(らくよう)の銘茶であることを明かす。初めはどうやって手に入れたのかと心配した母だったが、そのあたりの経緯を聞くと納得。息子の孝心に感動するあまり涙を流す。
(03)楼桑村 桃園
翌朝、劉備は4里ほど離れた鶏村(けいそん)まで清水をくみに行く。その間に母は桃園の一部を清掃し、家にしまってあった土炉や茶碗(ちゃわん)などを運び、茶を入れる準備を整えた。
清水をくんで劉備が戻り、母がご先祖に供えておいたという茶壺(ちゃつぼ)を取ってくると、母が改まって彼の身なりを見ていた。
すると母は、佩(は)いている剣が夫の遺物(かたみ)として授けた剣ではないことを問いただす。やむなく劉備は、一命を救われた礼として剣を張飛(ちょうひ)に渡したことを打ち明ける。
母は劉備の腕首をつかみ、桃園の果てにある蟠桃河(ばんとうが)の岸までやってくると、持っていた錫(すず)の茶壺を河に放り捨ててしまう。
訳がわからず、うろたえる劉備を叱りつける母。しかし劉備は母の言葉を聞き、自身が土民の中で貧窮しているうちに、心まで土民になりかけていたことに気づかされる。このまま土民として朽ち果てるつもりはないとの決意を述べ、ようやく母も安心した。
★ここで母は、劉備の先祖が漢(かん)の中山靖王(ちゅうざんせいおう)劉勝(りゅうしょう)だと言っていた。これはいいとしても、「お前のお父さまも、お祖父(じい)さまも、お前のように沓(くつ)を作り蓆を織り、土民の中に埋もれたままお果てなされてはいるけれど……」は引っかかる。
史実では、劉備の祖父の劉雄(りゅうゆう)は范県令(はんけんれい)を務めたとあるし、父の劉弘(りゅうこう)も劉備が幼いころに亡くなったものの、州郡に仕えていたともあった。祖父の代に沓作りや蓆織りをしていた可能性はないと思う。
また母が、景帝(けいてい。劉啓〈りゅうけい〉)の玄孫にあたるということを滅多に口に出すなと言い、「なぜならば、今の後漢(ごかん)の帝室は、私たちのご先祖を滅ぼして立った帝王だからです」とも言っていたが――。
後漢の初代の皇帝である光武帝(こうぶてい。劉秀〈りゅうしゅう〉)は、前漢(ぜんかん)の景帝の皇子である長沙定王(ちょうさていおう。劉発〈りゅうはつ〉)の子孫にあたる。つまり劉勝と劉発は異母兄弟だった。なので、ここで母が言っていることはイマイチしっくりこない。
(04)楼桑村 劉備の家
それから3、4年が過ぎた春のある日、白い山羊(ヤギ)の背に2個の酒瓶(中身の酒は道中で悪漢〈わるもの〉に飲まれたので空っぽ)を乗せ、それを引いた旅の老人が劉備の家の中庭に入ってくる。
老人は魯の李定と名乗り、この家の桑の大木は霊木で、遠くないこの春、葉が青々と付くころになるといい友達が訪ねてくると告げる。
さらに、蛟龍(こうりょう。みずち〈龍の一種〉)が雲を得たように、それからここの主は恐ろしく身の上が変わってくるとも伝えた。
李定は引いていた山羊を劉備の母に献ずると、この瓶に酒を買い、この山羊を屠(ほふ)り、劉備を祝ってやるよう言い残して立ち去る。
管理人「かぶらがわ」より
羊仙こと李定がいい味を出していました。今後の劉備の飛躍を、李定の予言という形で表現しているわけですよね。
『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・先主伝〈せんしゅでん〉)でも劉備の家にあった桑の大木の話に触れており、「ある人が『(この家からは)きっと貴人が出るだろう』と予言した」とあります。
この部分の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く習鑿歯(しゅうさくし)の『漢晋春秋(かんしんしゅんじゅう)』に、これを予言したのが涿(たく)の人である李定だとありました。
なぜ劉焉(りゅうえん)がこの地の太守(たいしゅ)と呼ばれているのかは謎でしたが、とりあえずおいておきましょう。ちなみに、校尉(こうい)の鄒靖(すうせい)という人物は正史『三国志』にも登場しています。
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