中平(ちゅうへい)6(189)年の夏、病が重くなった霊帝(れいてい)は跡継ぎをどうすべきか、ふたりの皇子のことで頭を悩ませる。彼の意は協皇子(きょうおうじ)に傾いていた。
そこで十常侍(じゅうじょうじ)の蹇碩(けんせき)らは策を巡らせ、弁皇子(べんおうじ。辯皇子)の伯父にあたる大将軍(だいしょうぐん)の何進(かしん)を暗殺しようと考える。
第017話の展開とポイント
(01)洛陽(らくよう) 内裏(天子〈てんし〉の宮殿)
中平6(189)年の夏、霊帝が重い病にかかる。
★ここで初めて年号が挙げられた。
★また、ここで『三国志演義(1)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第2回)の話の筋と合流している。
霊帝には何后(かこう。何皇后〈かこうごう〉)が生んだ弁皇子(辯皇子)と、寵姫の王美人(おうびじん。美人は貴人〈きじん〉に次ぐ妃の官名)が生んだ協皇子があった。
協皇子が生まれると何后は大いに嫉妬し、密かに鴆毒(ちんどく)を盛って王美人を殺した。
★この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「鴆は毒を持つ鳥で、その羽を酒に浸すことで毒酒を精製した。人を殺す毒として、謀殺や処刑に用いられた」という。
そして生さぬ仲の協皇子を、霊帝の母である董太后(とうたいこう)に預けた。董太后は協皇子を溺愛し、霊帝もまた弁皇子より協皇子に不憫(ふびん)を感じて偏愛した。
十常侍の蹇碩などはその思いを察し、協皇子を皇太子に立てるため、何后の兄である大将軍の何進を殺すようささやいていた。
病床の霊帝は蹇碩の言葉にうなずき、ついに決意し、何進に急ぎ参内するよう命ずる。
(02)洛陽 何進の私館
参内を命ぜられた何進は、前日に参内したばかりだったことから不審に思い、家臣に探らせてみる。すると十常侍の蹇碩らが何やら謀っているようだとわかった。
★井波『三国志演義(1)』(第2回)では、ここで蹇碩らが何進を殺そうと謀っていると告げたのは司馬(しば)の潘隠(はんいん)。
何進は諸大臣を招いて蹇碩らの陰謀を明かし、宦官(かんがん)を皆殺しにするとの考えを諮る。この席には典軍校尉(てんぐんこうい)の曹操(そうそう)の姿もあった。こうしているうち、たったいま霊帝が崩御(ほうぎょ)されたとの知らせが届く。
★ここで霊帝が十常侍の傀儡(かいらい)だったという説明があり、十常侍の悪政にも言及していた。
黄巾(こうきん)の乱後、皇甫嵩(こうほすう)と朱雋(しゅしゅん。朱儁)は十常侍からの賄賂の要求を一蹴したため讒言(ざんげん)を受けて官職を剝奪され、趙忠(ちょうちゅう)が代わって車騎将軍(しゃきしょうぐん)に任ぜられたこと。
張譲(ちょうじょう)ら内官13人が列侯(れっこう)に封ぜられ、司空(しくう)の張温(ちょううん)を太尉(たいい)に昇進させたりしたこと。忠諫を勧めたり真実を言う良臣は獄に下され、斬られたり毒殺されたりしたことなど。
また、黄匪(こうひ。黄巾)の乱が終息してまもなく、漁陽(ぎょよう)で張挙(ちょうきょ)と張純(ちょうじゅん)の謀反があり、長沙(ちょうさ)や江夏(こうか)でも大きな兵匪の乱が起こったのだとも言い、十常侍は霊帝に天下は泰平だと報告しつつ、長沙の乱へは孫堅(そんけん)を平定に向かわせたこと。
そして劉焉(りゅうえん)を益州牧(えきしゅうぼく)に、劉虞(りゅうぐ)を幽州(ゆうしゅう。幽州牧)に、それぞれ任じ、四川(しせん)や漁陽方面の賊を討伐させたことにも触れていた。
(03)平原県(へいげんけん)
そのころ劉備は故郷の涿県(たくけん)から代州(だいしゅう)へ戻り、再び劉恢(りゅうかい)の屋敷に身を寄せていた。
やがて劉備は劉恢から紹介状を受け取り、関羽(かんう)や張飛(ちょうひ)らを連れて劉虞を訪ねる。このとき劉虞は中央から命を受け、漁陽の乱賊を誅伐するべく出陣しようとしていたところだった。劉虞は大いに喜び、劉備らを自軍に編入した。
四川や漁陽の乱が一時の平定をみると、劉虞は朝廷に上表して劉備の勲功を大いにたたえた。この際、廟堂(びょうどう。朝廷)にあった公孫瓚(こうそんさん)も、劉備は黄巾の乱のとき抜群の功労があった者だと上聞に達したため、詔(みことのり)により平原県令(へいげんけんれい)に任ぜられた。
★井波『三国志演義(1)』(第2回)では、劉備が任ぜられたのは平原県令の代行。
こうして劉備らが平原県に来てみると、地味は豊饒(ほうじょう)で銭粮(せんろう。お金と穀物)の蓄えも官倉に満ちていたため、みな非常に元気づく。そのような状況の中で霊帝が崩御したというわけだった。
(04)洛陽 何進の私館
何進は禁門(宮門)の武官の潘隠から、十常侍が霊帝の崩御を隠し、まず何進を宮中へ召して殺害した後、協皇子を帝位に即けるという魂胆だと聞かされる。
何進が居合わせた諸大臣や文武官にこの話をしていたところ、霊帝の危篤を伝えたうえ参内を命ずる使者がやってきた。何進は潘隠に使者を殺すよう命ずると、皆の前で宦官の皆殺しを宣言する。
ここで司隷校尉(しれいこうい)の袁紹(えんしょう)が名乗りを上げ、許しを得て御林(ぎょりん。近衛軍)の兵5千をひきい、内裏まで押し通った。
(05)洛陽 内裏
この間に何進も車騎将軍たる武装をして、何顒(かぎょう)・荀攸(じゅんゆう)・鄭泰(ていたい)ら一族や大臣30余人を伴い、霊帝の柩(ひつぎ)の前に弁太子を立たせ、すぐさま新帝の即位を宣言。そして自身の発声により、百官に万歳を唱えさせた。
★ここで「車騎将軍たる武装をして」とあったのは誤りだろう。何進は大将軍である。史実では、このとき何進の異母弟の何苗(かびょう)が車騎将軍を務めており、そのあたりに起因する勘違いかもしれない。
管理人「かぶらがわ」より
袁紹が登場した第17話。何進の私館でのやり取りの間に劉備の動向が挟まれる形になっており、いささかまとめにくいところがありました。
一方、ここで初めて中平6(189)年という記述が出てきたことで、だいぶ時期が読み取れるようになりました。でもこうなると、先の第1話(01)における劉備の年齢設定がいっそう不可解に見えます。
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吉川英治著 新潮社 新潮文庫
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