孫策(そんさく)に敗れた劉繇(りゅうよう)は荊州(けいしゅう)へ落ち延びたが、配下の太史慈(たいしじ)は涇県(けいけん)に立て籠もり抵抗を続けていた。
だが、周瑜(しゅうゆ)の策にかかって城外へ誘い出された末に捕らえられ、孫策の前に連れてこられる。太史慈は早く首を刎(は)ねてほしい気持ちだったが、孫策から思わぬことを言われる。
第058話の展開とポイント
(01)涇県
孫策の名は旭日(きょくじつ)の勢いとなり、江東(こうとう)一帯はその武威にあらまし慴伏(しょうふく。恐れてひれ伏すこと)する。ただ、太史慈の立て籠もる涇県の城は依然として抗戦を続けていた。
涇県に着いた孫策は味方の優勢を戒め、寄せ手の軍勢を遠巻きに配しておもむろに城中の気配を探る。
孫策、周瑜とも城の攻略は至難との見方で一致したが、周瑜は陳武(ちんぶ)に決死隊10人を付け、風の夜に城中に忍び込ませて火を放つという策を献ずる。
孫策が、敵の太史慈を生け捕りにして味方に加えたいと言うと、周瑜は、城中に火光が見えだしたら同時に三方から攻め寄せ、わざと北門だけ手薄にしておくよう言い、北門から太史慈が打って出たら彼ひとりを目がけて追いまくり、その行く先に伏兵を置いておくよう勧める。
★『三国志演義(1)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第15回)では、このとき周瑜が開けておくよう言ったのは東門だった。
孫策も手を打って同意。陳武の下に10人の決死隊が募られ、風の夜を待つ。
無月黒風(暴風)の夜が来ると決死隊は油布や脂柴(あぶらシバ)などを背負い、陳武も身軽にいでたち、地を這(は)い草を分けて敵の城壁の下まで忍び寄った。
陳武が先頭に立ち、高温の火で土を焼いた磚(せん。煉瓦〈れんが〉の一種)を積み重ねた城壁をよじ登ると、皆も磚と磚の間に差し込んだ短剣を足がかりに踏み登っていく。
こうして城中の銭糧倉や櫓(やぐら)、書楼の床下や馬糧舎から一度に火が出ると、諸門の番人がわめきだした。
太史慈は将軍台から消火の指揮を執っていたが、城中は乱れ立つ。諸所の火の手が防ぎきれないうえ三方から孫策軍が迫ったので、北門を開いて突出するよう命ずる。
(02)涇県の城外
太史慈自身も北門から城外へ出たが、手薄に見えた孫策軍は案外に大勢だった。奮戦を続けた太史慈もやがてひとりになり、やむなく故郷の東萊(とうらい)に潜んで時節を待とうと考える。
心を決めて江岸へ急ぐと、なお孫策軍の追う声が聞こえる。10里、20里と走っても追ってきた。
この地方は湖沼が多く、蕭々(しょうしょう)たる蘆(アシ)や葭(ヨシ)が一面に生い茂っていた。そのため太史慈も幾たびか道を見失う。
駒が沼の泥土に脚を突っ込み、太史慈の体も蘆の中に放り出されると、四方の蘆の間から熊手が伸び、ついに生け捕られた。
(03)孫策の本営
太史慈は早く首を刎ねてくれと言うが、孫策は縄目を解き、自分に仕えるよう説得。ここで太史慈は潔く降伏する。
孫策は酒宴を設けて語り合うが、今後の良計を尋ねても、太史慈は謙遜して話そうとしない。
孫策が、昔の韓信(かんしん)も降将の広武君(こうぶくん。李左車〈りさしゃ〉)に謀計を尋ねている、という逸話を引き、なお意見を求めると、ようやく太史慈も一計を述べる。
それは、3日間ほど自由にしてもらえれば、自分が行って四散した劉繇の敗残兵を説き伏せ、必ず将来、孫策の盾となるような精兵3千を集めて帰るというものだった。
孫策は度量を見せてすぐに許したが、3日目の午(うま)の刻(正午ごろ)までには必ず帰ってくるよう念を押す。
★井波『三国志演義(1)』(第15回)では、孫策が太史慈に求めたのは明日の正午までに戻ってくること。
太史慈は一頭の駿馬(しゅんめ)をもらい、夜のうちに陣中を発った。翌朝に諸将は、太史慈の進言に任せて3日間も放してやったと聞き、もう彼は帰ってこないだろうと言い合う。
だが孫策は笑いながら首を振り、太史慈が帰ってくることを確信しているようだった。
そして3日目になると陣外に日時計を据え、ふたりの兵に日影を見守らせる。番兵が午の刻を告げたころ、太史慈は3千の味方を連れて約束通りに帰ってきた。
孫策の炯眼(けいがん)と太史慈の信義に感じ、先には疑っていた諸将も思わず双手を打ち振り、歓呼して迎えた。
★井波『三国志演義(1)』(第15回)では、太史慈が連れ帰った軍勢は1千余人。
管理人「かぶらがわ」より
旧主の劉繇への忠義を貫き、最後まで抵抗を見せた太史慈。その彼が孫策の説得に心服したことで、さらに軍容が強化されました。
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