吉川『三国志』の考察 第093話「太医吉平(たいいきっぺい)」

車騎将軍(しゃきしょうぐん)の董承(とうじょう)は献帝(けんてい)から血の密詔を賜って以来、曹操(そうそう)を除く妙計がないか考え続けていた。

ほどなく董承が病を得て寝込むと、容体を心配した献帝は太医(たいい)の吉平(きっぺい)を遣って治療にあたらせる。吉平は日々診察に通ううち、ついに病根を突き止めるが――。

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第093話の展開とポイント

(01)許都(きょと) 丞相府(じょうしょうふ)

荊州(けいしゅう)へ遣わした禰衡(ねいこう)が劉表(りゅうひょう)配下の黄祖(こうそ)に殺されたことが伝わると、曹操はこれを口実に大軍を向け、一気に荊州を取ろうかと議した。

冒頭で若き日の曹操を振り返ったり、重臣の荀彧(じゅんいく)の出自や才能などが語られていた。

諸将は奮い立ったものの、荀彧は賛成しない。彼は袁紹(えんしょう)との戦が片づいていないことや、徐州(じょしゅう)に劉備(りゅうび)が健在であることを指摘。

それを半途にまた東方に軍事を起こすのは、心腹の病を後にして、手足の傷を先にするようなものだと言う。曹操はこの進言に従い、荊州への出兵を一時、思いとどまる。

(02)許都 董承邸

車騎将軍の董承は功臣閣(こうしんかく)で献帝から血の密詔を賜って以来、寝食も忘れ曹操誅殺の妙計を考え続けていた。

董承が献帝から血の密詔を賜ったことについては、先の第78話(01)を参照。

しかし月日はいたずらに過ぎ、頼みにしていた劉備は都を去ってしまうし、馬騰(ばとう)も西涼(せいりょう)へ帰ってしまった。一味の王子服(おうしふく)らと密会を重ねてはいたが、何分まるで実力がなかった。

そうしているうち病にかかると日増しに容体が重くなり、近ごろはまったく自邸に病臥(びょうが)していた。

献帝は董承の病が重いと聞くと胸を痛め、さっそく典薬寮(てんやくりょう)で太医を務める吉平を遣わす。

董承の一門の者たちが出迎えに立ったとき、吉平の前に進んで薬籠を捧げ持ったのは、董家の召し使いの慶童(けいどう)だった。

慶童は『三国志演義』では秦慶童(しんけいどう。秦慶堂とも)とある。

吉平は董承をつまびらかに診察し八味の神薬を調合すると、これを朝暮に飲ませるよう言う。必ず10日のうちにお元気になられるとも。

吉平が言った通り董承は食欲が戻り、容体も日ごとに改まる。それでも依然として、病床から離れるほどには回復しなかった。

その後も吉平は毎日のように診察に来ていたが、もうどこも悪くないはずの董承の様子を見て不思議に思う。なお彼は、少し動くと胸が苦しくなるというのだ。

吉平は、陛下が容体を心配されていると告げるたびに董承が涙を流していたことから、その態度と病根とを思い合わせ、ひとり何かにうなずく。

ひと月ばかり経った正月15日のこと、今宵は上元(じょうげん。元宵〈げんしょう〉)の佳節だというので親族や友人が集まっていた。

ここでは年が明け、建安(けんあん)5(200)年になったものと思われる。なお『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第23回)では、建安5(200)年の元旦の朝賀の際、曹操のますます驕慢(きょうまん)な態度を目の当たりにし、董承は憤慨のあまり病気になったとあった。

董承も病室ではあるが、吉例として数献の酒を傾け、いつかトロトロと牀(しょう。寝台)に寄り眠ってしまう。このとき曹操を討ち果たす夢を見るが、しきりと揺り起こす者がいてハッと目を覚ます。客として奥に来ていた吉平だった。

吉平は声を潜めて固く手を握り、「ようやくあなたの病根を突き止めました」と告げる。さらに彼が指を食い破り、他言せぬとの誓いを血をもって示すと、董承は一切の秘事を打ち明け血の密詔も見せた。

ここで吉平は、曹操を一朝にして殺す妙策があると言いだす。曹操のただひとつの持病の頭風(とうふう)を利用するのだという。

董承が「では毒を?」と言ったところ、ふたりはヒタと口をつぐむ。部屋の外で、風もないのに何かが動く気配を感じたからだった。

管理人「かぶらがわ」より

密詔のことで心を悩ませ、ついに病臥するに至った董承。吉平の妙計を聞いて一気に全快といきたいところですが……。この第93話はいつもと趣が異なり、サスペンスドラマを思わせるものがありました。

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