劉備(りゅうび)が河北(かほく)にいるとの情報は周知の事実となり、曹操(そうそう)は関羽(かんう)が自分のもとから去っていくことを恐れ始める。
そこで関羽に別れの挨拶をさせないよう、避客牌(ひかくはい。客の訪問を断る札)を用いた一計を施す。何度訪ねても会おうしない曹操の態度を見て、ついに関羽はある決断を下す。
第106話の展開とポイント
(01)許都(きょと) 丞相府(じょうしょうふ)
劉備が河北にいるという事実は、やがて曹操の耳にも入ってきた。そこで張遼(ちょうりょう)を呼び、最近の関羽の様子を尋ねる。
張遼も主君の思いを察し心を痛めていたところだったので、近いうちに訪ね、それとなく心境を探ってみると言って退がった。
(02)許都 関羽邸
数日後、張遼はふらりと内院の番兵小屋を訪ねる。関羽は読んでいた『春秋(しゅんじゅう)』を置いて迎え入れた。
★この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「(『春秋』は)五経のひとつで、春秋時代に魯(ろ)の年代記を孔子(こうし)が筆削したものとされる。『春秋』の注のうち、関羽は『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』に精通していたとされ、関帝廟(かんていびょう)の像も多く『春秋左氏伝』を携えている」という。
★五経に数えられるのは『易経』『書経(しょきょう)』『詩経(しきょう)』『礼記(らいき)』『春秋(しゅんじゅう)』の5つの経典。
張遼は『春秋』を読んでいたと聞くと、管仲(かんちゅう)と鮑叔(ほうしゅく)との美しい古人の交わりが書いてあるくだりについて意見を聴く。
★新潮文庫の註解によると「(管仲と鮑叔は)ともに春秋時代の斉(せい)に仕え、桓公(かんこう)を覇者とした。ふたりの親密で理解し合った交際のことを『管鮑の交(かんぽうのまじわり)』という」とある。
だが関羽は別にどうも思わないとして、自分には皇叔(こうしゅく。天子〈てんし〉の叔父。ここでは劉備のこと)という実在のお人があるから、古人の交わりもうらやむに足らないのだと答える。
そのうち張遼は劉備が河北にいる件に触れ、関羽の考えを聴く。すると関羽は蓆(むしろ)に座り直し、あなたから丞相(曹操)に告げ、暇(いとま)をもらってほしいと頼む。
張遼も今は明らかに彼の心を見抜き、驚きながらその足で曹操の居館へ急いだ。
(03)許都 丞相府
張遼からありのままの復命を受けると、曹操は大きく嘆息し、苦悶(くもん)を眉に漂わせた。
それでも一計があるとつぶやき、その日から門の柱に一面の聯(れん。柱や壁などの左右に並べて掛ける、細長い書画の板)を掛け、みだりに出入りすることを禁ずる。
(04)許都 関羽邸
関羽は、今に沙汰があるだろう、張遼が何か言ってくるだろうと心待ちにしていたが、幾日経っても使いはなかった。
そのようなある夜、関羽が番兵小屋を引き揚げ外院へ戻ろうとすると、物陰からひとりの男が近づいてくる。男は書簡らしきものをそっと手に握らせ、風のように立ち去った。
関羽は自室で書簡を読んで驚く。それは劉備の筆跡で、その夜はよく眠らなかった。
翌日も関羽は番兵小屋で書物を読んでいたが、何となく心も入らない。するとひとりの行商人がどこからか紛れ込み、小屋の窓から「お返事は書けていますか?」と小声で言った。よく見ると昨夜(ゆうべ)の男だった。
何者かとただすと、男はさらに四辺をうかがいながら、袁紹(えんしょう)の臣の陳震(ちんしん)と名乗る。
陳震は、一日も早くこの地を逃れ、河北へ来てほしいとの言づても伝えた。関羽の返事を得ると、彼は素早く許都から姿を消す。
★おそらく「劉備の」ということだと思うが、ここにある言づてが劉備からのものなのか、袁紹からのものなのか、イマイチはっきりしなかった。
(05)許都 丞相府
翌日、関羽は曹操に会って自ら暇を乞おうと出ていったが、門の柱に避客牌が掛けられていた。関羽は門前にたたずんでいたが、是非なく踵(くびす。きびす)を巡らせて帰った。
翌日も早朝に来てみたが、依然として避客牌は掛けられたまま。その翌日は夕方を選んで来てみたが、やはり門扉は閉じられている。
(06)許都 関羽邸
関羽はむなしく立ち帰ると、下邳(かひ)にいたころから随身している手飼いの従者20人ばかりを集め、不日、二夫人の御車(みくるま)を推して内院を立ち去る旨を伝えた。もの静かに打ち立つ用意に取りかかれ、とも。
★ここは原文のまま「二夫人の御車を推して」としておいたが、「車を推す」という用法があるのかよくわからなかった。
甘夫人(かんふじん)に尋ねられると、関羽は、朝夕の間にここを去るつもりだと答える。さらに二夫人にも言い含め、召し使いたちにも固く言い渡す。
この院に備えてある調度はもちろん、日ごろ曹操から贈られた金銀緞匹(だんひつ。練り糸で織った厚い絹織物)はすべて封じ残し、ひとつも持ち去ってはならないと。
こうして出発の準備を進める間も、関羽は日課のように丞相府へ出向いた。そしてむなしく帰ることが7、8日に及ぶ。関羽は張遼の私邸を訪ねて訴えようとしたが、張遼も病気と称して面会を避けた。
密かに意を決した関羽はその夜、一封の書状をしたためる。この書状を寿亭侯(じゅていこう)の印とともに庫(くら)の内に掛け、庫内いっぱいにある品々にはいちいち目録を添えて残した。
★小ネタとしてはうまいと思うが、史実の関羽は寿亭侯ではなく漢寿亭侯(かんじゅていこう。漢寿は地名)である。なお『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第26回)では、曹操の上表により関羽が漢寿亭侯に封ぜられ、印を贈られたとしか書かれていない。
こうして庫を固く閉めてから、皆に院内をくまなく掃除するよう命ずる。掃除は夜半すぎまでかかったが、ほの白い残月の下に塵(ちり)ひとつなく清められた。
(07)許都
二夫人は一輛(いちりょう)の車に乗り、20人の従者が車に添って歩く。関羽は赤兎馬(せきとば)に打ちまたがり、青龍の偃月刀(えんげつとう)を抱え、車の露払いをしながら北の城門から出ようと差しかかった。
城門の番兵は立ちふさがって止めようとしたが、関羽が目を怒らせるとことごとく震い恐れ、暁闇のそこここへ逃げ散ってしまう。
関羽は夜明けとともに追手がかかることを予測し、従者たちには先へ行くよう言い、ひとりだけ後から進んでいった。
管理人「かぶらがわ」より
曹操の避客牌作戦もうまくいかず、とうとう許都を離れる決心をした関羽。しかし封侯の印まで置いていくとは……。許都に潜入する陳震、というのもなかなかの設定でした。
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