曹操(そうそう)の言葉に従い、衛府(えいふ)の練兵場で行われた閲兵の様子を、楊修(ようしゅう。楊脩)とともに眺める張松(ちょうしょう)。
ここでも皮肉を言って曹操を激怒させ、兵士たちから殴る蹴るの暴力を受ける。張松は許都(きょと)を去ったが、そのまま蜀(しょく)へ帰らず、途中で道を変えて荊州(けいしゅう)へ向かう。
第189話の展開とポイント
(01)許都 衛府
張松の言動に怒った曹操が言う。
「張松とやら。いま汝(なんじ)は、蜀は仁政をもって治めるゆえ、兵馬の強大は要らんとか申したが、もし曹操が西蜀を望み、この士馬精鋭をもって押し寄せたときは如何(いか)ん。蜀人みな鼠(ネズミ)のごとく、逃げ潜む術(わざ)でも自慢するか?」
★張松の言動については前の第188話(02)を参照。
★ここは原文「この士馬精鋭をもって押しよせたときは如何」だったが、この「如何」をどう解釈すべきかわかりにくかった。一応「如何ん」としておいたが、「如何が」など別の解釈も可能かも?
張松は笑い、口を曲げて答える。
「聞くならく、魏(ぎ)の丞相(じょうしょう)の曹操は、むかし濮陽(ぼくよう)に呂布(りょふ)を攻めてもてあそばれ、宛城(えんじょう)に張繡(ちょうしゅう)と戦うて敗走す。また、赤壁(せきへき)に周瑜(しゅうゆ)を恐れ、華容(かよう)に関羽(かんう)に遭い、泣訴して命を助かる」
「なおなお、近くは渭水(いすい)潼関(どうかん)の合戦に、髯(ひげ)を切り、戦袍(ひたたれ)を捨てて辛くも逃げのがれたまいしとか。さるご名誉を持つ幕下の将士とあれば、たとい100万、200万、挙げて西蜀に攻めきたろうとも、蜀の天険、蜀兵の勇、これをことごとく屠(ほふ)るに、何の手間暇が要りましょうや?」
「丞相もし蜀の山川風光の美もまだ見たまわずば、いつでも遊びにおいでください。おそらく再び銅雀台(どうじゃくだい)にお帰りの日はないでしょう」
当然、曹操は赫怒(かくど。怒るさま)。楊修(楊脩)に向かい、張松の首を塩桶(しおおけ)に詰めて蜀へ送り返せと罵った。楊修は助命を嘆願したが、曹操は聞かない。
しかし荀彧(じゅんいく)まで出て、殺すことだけはおやめになったほうがよろしいと諫めると、曹操は百棒を加えて場外へ叩き出すよう命じた。
たちまち張松は大勢の兵に囲まれ、練兵場の外に引きずり出される。そして鉄拳を浴び、足蹴を受け、半死半生にされたうえ突き出された。
(02)許都
張松はすぐに本国へ帰ろうと思った。だが自分が魏に来た心底には、蜀は到底、いまの暗愚な劉璋(りゅうしょう)では治まらない。いずれ漢中(かんちゅう)に侵略される運命にある。
で、今度の使命を幸いに、もし曹操の人物さえ良かったら、魏の国に蜀を合併させるか属国となすか。いずれにせよ、蜀は曹操に取らせてもよいという考えでいたのである。
ここで張松は報復を決意。腫れ上がった顔に療治を加えると、翌日、丞相府にも断らず、従者を連れて許都を去った。
「蜀の小男が余計に小さくなって、蜀へ帰っていった」
都の者は笑っていたが、張松は途中から道を変え、荊州のほうへ急いでいたのだった。
(03)郢州(えいしゅう)
こうして張松が郢州の近くまで来ると、彼方(かなた)から一隊の軍馬が整然と近づいてきた。荊州の劉備(りゅうび)の命を受け、出迎えに来た趙雲(ちょううん)だという。
★『三国志演義 改訂新版』(立間祥介〈たつま・しょうすけ〉訳 徳間文庫)の訳者注によると、「(郢州は)南朝(なんちょう)の宋(そう)のとき初めて置かれたもので、現在の湖北省(こほくしょう)武昌(ぶしょう)の地である。のち唐(とう)のとき湖北省鍾祥県(しょうしょうけん)に置かれたが、いずれにせよ、ここでは後代の地名を用いている」という。
★『三国志演義(4)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第60回)を見ると、張松が荊州の境界まで来たときに出迎えの趙雲と出会ったとある。なので、ここでは郢州の名を持ち出す必要がなかったようにも思われるが……。
導かれた一亭には酒が整い、茶も煮てあり、洗浴の設けまでしてあった。そこからは趙雲の案内によって、張松は途中の不自由もなく進む。日を重ねて荊州へ入り、夕暮れのころ駅館に着いた。
(04)荊州 張松の駅館
門外には、100余人の兵が二行に分かれて整列。張松の姿を見ると一斉に鼓を打ち、鉦(かね)を鳴らして歓迎する。
関羽が馬の口輪を取って導くと、張松はあわてて馬を下りる。
だが関羽は、自分は出迎えを命ぜられた皇叔(こうしゅく。天子〈てんし〉の叔父。ここでは劉備のこと)の一臣にすぎないと言うばかり。
駅館に入ると、関羽は客のために夜もすがらもてなし、その接待は懇切を極めた。
(05)荊州(江陵〈こうりょう〉?)
翌日は荊州の城市へ入る。見ると城市の門まで、道は塵(ちり)もとめずに掃き清められていた。
★もう慣れっこだが、ここでいう荊州(城)がどの城のことなのかよくわからず。江陵ではなく、襄陽(じょうよう)や公安(こうあん)と見ても話が通じそう……。
ほどなく一群の人馬が進んでくるが、真っ先に来るのは劉備。その左右は諸葛亮(しょかつりょう)と龐統(ほうとう)の二重臣と思われる。
張松は驚いて馬を下り、路上で拝跪(はいき)の礼を執ろうとしたが、劉備も馬を下りてその手を取り、城へと招いた。
城中の歓迎は豪奢(ごうしゃ)ではないが、雲山万里の旅客にとっては温かみを抱かせるものだった。
このときの劉備は、世上一般の四方山話(よもやまばなし)に興じているだけで、蜀の事情などは少しも尋ねなかった。かえって張松のほうから、話題に飽き、現在の劉備の所領について質問してみる。
するとそばから諸葛亮が答えた。州都もすべて借り物なのだと。
わが主君はもの堅く、呉(ご)の孫権(そんけん)の妹君を夫人にしておられる関係に義を立てて、今なお真にご自身の国というものをお持ちになっていないのだとも。
龐統も口をそろえ、わが主は漢朝(かんちょう)の宗親でありながら、少しも自分というものを強く主張しようとなさらないのです、といかにも歯がゆそうに言う。
張松は何度もうなずき、杯を受けながら共鳴を誇張した。
3日間の逗留中(とうりゅうちゅう)、張松は城中でもてなされていたが、一日でも一刻でも不愉快なことは覚えなかった。
4日目に別れを告げ、蜀へ発つ。劉備は名残を惜しみ、十里亭まで自ら送ってきた。
★井波『三国志演義(2)』の訳者注によると、「(十里亭は)街道に設けられた旅行者用の休憩所。10里ごとに長亭を設置し、5里ごとに短亭を設置する」という。
(06)荊州の郊外
ここに小憩してささやかな別宴を開き、ともに杯を挙げ、前途の無事を祈る。目に涙を含む劉備。張松はこのとき胸に誓う。蜀に迎えて蜀の新天地を創造する人は、まさにこの人以外はないと。
張松は劉備に西蜀の地を望むようにと言い、今回の上洛の心中を打ち明ける。そして従者を呼ぶと、蜀から携えてきた西蜀四十一州図を披露した。
さらに、自分と深い交わりのある法正(ほうせい)と孟達(もうたつ)の名を挙げ、どうかご記憶に留めておいてほしいと告げる。
★ここで張松が、孟達のあざなを子慶(しけい)と紹介していた。井波『三国志演義(4)』(第60回)でも同じ。
だが『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・劉封伝〈りゅうほうでん〉)によると、孟達はもとのあざなを子敬(しけい)といい、後に劉備の叔父である劉敬(りゅうけい)の名を避け、子度(したく)と改めたという。なので劉備に仕える前の時点では、あざなを子敬と見たほうがいい。
張松は、西蜀四十一州図を献じて先へ発った。劉備は十里亭から戻ったが、関羽と趙雲などは、なお数十里先まで送っていった。
(07)成都(せいと)
益州(えきしゅう)は巴蜀(はしょく)地方の総称である。漢代から蜀は益州、あるいは巴蜀と広く呼ばれていた。
張松は日を経て益州へ帰ってきた。成都に近づいたころ、道の傍らから孟達と法正が出てくる。ふたりは出迎えに来ていたもので、松の下に誘い、茶を勧めた。
ここで張松は、曹操との交渉が不調に終わったことや、途中で自分の気持ちが変わったことを話す。
ならば曹操の代わりに誰を迎えるのか? 忌憚(きたん)のない意見を求めると、ふたりとも劉備の名を挙げる。
これを聞いた張松は莞爾(かんじ)とし、許都を去って荊州へ立ち寄った事情や、劉備とある黙契を結んできた事実を伝えた。意見が一致した3人は血盟して別れる。
翌日、張松は劉璋に謁し、使いの結果を復命。もちろん曹操のことは極力悪しざまに言った。
曹操には早くから蜀を奪う下心があったので、こちらの交渉など耳にもかけないばかりか、かえって張魯(ちょうろ)の先を越し、蜀へ攻め入ってくるような気配すら見えたと告げたのだった。
管理人「かぶらがわ」より
原文の一節に心に響くものがありました。
「人と人との応接は、要するに鏡のようなものである。驕慢(きょうまん)は驕慢を映し、謙遜は謙遜を映す。人の無礼に怒るのは、自分の反映へ怒っているようなものといえよう」
人のもてなし方が曹操とは異なる劉備。許都での態度とは一変し、曲者の張松もすっかり傾倒してしまいました。これは劉備の強みですよね。
テキストについて
『三国志』(全10巻)
吉川英治著 新潮社 新潮文庫
Yahoo!ショッピングで探す 楽天市場で探す Amazonで探す
記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。
コメント ※下部にある「コメントを書き込む」ボタンをクリック(タップ)していただくと入力フォームが開きます