関羽(かんう)が頼みにしていた烽火台(のろしだい)も機能せず、呂蒙(りょもう)の知謀の前に荊州(けいしゅう)は陥ちた。
呂蒙は占領後の民心の安定にも気を配り、自ら城内を巡察したが、にわか雨の中、ひとりの兵士が百姓の笠をかざして駆けてくるのを目にする。
第233話の展開とポイント
(01)荊州(江陵〈こうりょう〉?)
荊州の本城は実に脆(もろ)く陥ちた。
★ここでも荊州城(荊州の本城)が、どこを指しているのかはっきりしない。おそらく江陵城だと思われるが……。
関羽はあまりに後方を軽んじすぎた。戦場のみに充血し、内政と防御の点には重大な手抜かりをしていたきらいがある。
烽火台の備えに頼みすぎていたこともひとつだが、とりわけまずいのは、国内を守る人物に人を得ていなかった点である。留守の大将の潘濬(はんしゅん)は凡将だったし、公安(こうあん)の守将たる傅士仁(ふしじん)も軽薄な才人にすぎない。
★傅士仁は、正史『三国志』では士仁とある。傅は衍字(えんじ。間違って入った不用の文字)だという。
よりによって、なぜこのような凡将を残していったかと言えば、樊城(はんじょう)へ出陣する前、この二将に落ち度があった。
関羽は軍紀振粛のため、その罪をいたく責めて、懲罰の代わりにふたりを出征軍から省いた。留守に回されるということは、武門として軍罰を被るよりも不名誉とされていたからである。
★『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第73回)では、落ち度があったため留守に回されたのは傅士仁と糜芳(びほう。麋芳)。潘濬は関羽の命により、後から守りに派遣されていた。
潘濬が真の人物なら、この不名誉はむしろ彼を発奮させたであろうが、潘濬も傅士仁も内心で恨みを抱き、もう関羽の麾下(きか)では将来の出世はおぼつかないと、商機を計るような考えを起こした。
そして内政も軍事もまったく怠っていたところへ、つなぎ烽火も何の前触れもなく、いきなり呉の大軍が攻めてきた。結果から見れば、実に当然の陥落だったとも言える。
呂蒙は占領直後、孫権(そんけん)の入城を待たずに布告した。
一、みだりに人を殺す者
一、みだりに物を盗む者
一、みだりに流言を放つ者
以上。その一を犯す者も斬罪に処す。
荊州城にあった関羽の一族は、呂蒙の指図によって丁重にほかの屋敷へ移され、不安や不自由なく保護されていた。これを見た荊州の人民は、「ありがたいことだ」と、呂蒙の名を口から口へささやき伝えた。
呂蒙は日々、5、6騎の供を連れ、自ら戦後の民情を見て歩く。ある日、途中でにわか雨に遭い、なお濡れながら巡視を続けていると、ひとりの兵士が百姓のかぶる竹笠を兜(かぶと)の上にかざしながら、彼方(かなた)から一目散に駆けてくるのを見かけた。
部下に命じて捕らえさせると、その兵士はよく顔を知っている同郷の男だった。しかし呂蒙は兵士をにらんで言う。
「日ごろから私は、同郷や同姓の者は殺さずという誓いを立てていたが、それは私事であり公務の誓いではない」
★ここで呂蒙が話した誓いのことは、井波『三国志演義(5)』(第75回)では見えなかった。
「汝(なんじ)はにわか雨に遭い、百姓の竹笠を盗んだ。高札に掲げる一条を犯した以上は、たとえ同郷の者たりとも法を乱すわけにいかん。首にして街へ掛けるから観念するがよい」
仰天した兵士は雨中に哀号したが、呂蒙はただ顔を横に振るだけだった。
兵士の首と竹笠とが、獄門となってさらされる。市人はうわさを伝え聞き、その徳に感じ、呉の三軍は震い恐れ、道に落ちている物も拾わなくなった。
江上で待っていた孫権が、諸将を従えて入城すると、潘濬の乞いを容れて呉軍に加える。また、獄中にあった魏(ぎ)の虜将の于禁(うきん)を引き出し、「呉に仕えよ」と首枷(くびかせ)を解いてやった。
★于禁が荊州の獄中にあったことについては、先の第229話(04)を参照。なお井波『三国志演義(5)』(第75回)では、孫権が于禁を釈放し、曹操(そうそう)のもとへ送り返したとある。
管理人「かぶらがわ」より
「たかが竹笠、されど竹笠」。パフォーマンスに見える処刑まで活用する形で巧みに民心を掌握し、軍紀も引き締めた呂蒙。
別の屋敷に移されたという関羽の一族に、もう少し触れてほしいところでしたが、そのあたりは史実でもわからないことが多いようです。
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