味方の董荼奴(とうとぬ)に捕らえられた孟獲(もうかく)だったが、諸葛亮(しょかつりょう)は再び解放する。
そのうち弟の孟優(もうゆう)が、銀坑山(ぎんこうざん)から援軍をひきいて駆けつけると孟獲は大喜び。ふたりでひと晩じゅう策を練り、翌日には孟優が蜀陣(しょくじん)を訪ねて降伏を申し入れた。だが、孟獲らの意図は諸葛亮に看破されていて――。
第268話の展開とポイント
(01)瀘水(ろすい)の南岸 孟獲の山城
孟獲は、山城に帰ると諸洞の蛮将を呼び集め、例によって怪気炎を吐き散らす。
「今日も孔明(こうめい。諸葛亮のあざな)に会ってきた。あいつは俺が縛られていっても殺すことができないのだ。なぜかと言えば、俺は不死身だからな。刃をかみ折り、奴らの陣所を蹴破って帰るぐらいな芸当は朝飯前のことだ」
そして皆で手分けして、董荼奴と阿会喃(あかいなん)の首を持ってくるよう命じた。
★『三国志演義(6)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第87回)では、董荼奴が董荼那(とうとな)とあり、阿会喃は同じ表記になっていた。
(02)瀘水の近く
翌晩、寨門(さいもん)を出た蛮将は、幾手にも分かれて待ち伏せる。昼間のうちに諸葛亮の偽使者を仕立て、董荼奴と阿会喃に呼び出しをかけていたのだ。
ふたりは計(はかりごと)に乗せられて、自分たちの洞中から、山越えで瀘水の道へ向かう。するとたちまち合図の角笛が鳴り、四方に隠れていた土蛮が董荼奴を殺し、阿会喃を取り囲む。
こうしてふたつの首を取ると、その死骸は谷間へ蹴落とし、狼群(ろうぐん)のように本陣へ帰ってきた。
(03)瀘水の南岸 孟獲の山城
孟獲は首に向かって罵り、終夜にわたって鬱憤(うっぷん)晴らしの酒宴を続ける。その後、一睡から覚めると突如、銅鈴を振り、鉄笛を吹かせ、鼓盤を打ち叩いて出陣を触れた。
(04)夾山(きょうざん)
孟獲は夾山へ向かい、ここに屯(たむろ)しているはずの馬岱(ばたい)の部隊を殲滅(せんめつ)しようとする。
★夾山について、井波『三国志演義(6)』(第88回)では夾山峪(きょうざんよく)とある。峪は谷や狭間という意味。
ところが、すでに蜀兵の影は一個も見えない。土地の者に尋ねると、一昨日の夜、急に河を渡り、(瀘水の)北岸へ退いてしまったとのことだった。
(05)瀘水の南岸 孟獲の山城
ひとまず孟獲は本陣へ引き返したが、帰ってみると、弟の孟優が兄の苦戦を聞き、遥か南方の銀坑山から新手2万を引き連れて加勢に来ていた。
★井波『三国志演義(6)』(第88回)では、このタイミングで孟優がやってきたのかはっきりしない。
蛮族間でも兄弟の情はあるらしい。いや、中国人よりもその密なることは露骨で、よく来た、よく来てくれたと、抱擁したり頰ずりしたりしていた。
そして夜半まで酒を酌み交わしていたが、その間に十分な秘策を練り合ったとみえる。翌日、孟優は部下100人に鳥の毛や南蛮染(なんばんぞめ)の衣を飾らせ、瀘水を越えて対岸の敵地へ渡った。
(06)諸葛亮の本営
やがてその列が陣門に近づくと、見張りの櫓(やぐら)から鼓角が鳴り、馬岱の一隊が前を遮る。
孟優は地に拝伏し、わざと恐れおののいて言った。
「兄に代わり、正式に降参の申し入れに参りました。私は弟の孟優です」
馬岱がこの由を伝えた際、諸葛亮は諸将と何か議していたが、そばにいた馬謖(ばしょく)を顧み、「わかるか?」と微笑して尋ねる。
馬謖はうなずいたが、「口では申されません」と辺りの人々を憚(はばか)り、紙に何か書いてみせた。
諸葛亮は一読してニコと笑い、膝を打ちながら言う。
「しかり。きみの思うところ、孔明の意中にもよく当たっている。孟獲をみたび擒(とりこ)にするの計。それ一策である」
諸葛亮は趙雲(ちょううん)をそば近くに差し招き、何か計を授け、魏延(ぎえん)・王平(おうへい)・馬忠(ばちゅう)・関索(かんさく)などにも、それぞれ行動の方針を示して、すぐに諸方へ発たせた。
そうした後で孟優を呼び入れ、なぜにわかに降伏してきたのかと、怪しみいぶかってみせる。
孟優は蛮界に珍しい能弁な男だった。本国の一族や諸洞の長老らに諭され、兄の孟獲が降伏を決意したことを、涙を流さぬばかりに告げた。さらに、連れてきた蛮卒100余人の手で、貢ぎ物を山と積ませる。
なお孟優は言った。
「兄の孟獲も一度、銀坑山の宮殿へ帰り、多くの財宝を牛馬に積み、天子(てんし。劉禅〈りゅうぜん〉)へご献上を仰ぐため、やがて日を経てこれへ降参に参る予定でございます」
始終を聞き取ってから、諸葛亮は初めて親しみを見せる。そして心から恭順を歓迎し、また贈り物を眺めては、あらゆる随喜と満足を示した。
そのうえ席を改めて酒宴を開き、成都(せいと)の美酒や四川(しせん)の佳肴(かこう)をもって、下へも置かずにもてなす。
酒宴は昼から続いている。その宵、いや、そのころすでに、瀘水の上流を越えて、山谷や森林を潜り、蜀陣の明かりを目印に、蛮夷(ばんい。異民族)の猛兵万余の影が後ろへ迫っていた。
彼らは手に手に硫黄・焰硝(えんしょう。火薬)・獣油・枯れ柴(シバ)など、物騒なものを持ち込んでいた。頃はよしと、孟獲は躍り上がって合図の手を振る。蛮軍の影はまっしぐらに駆け出し、孟獲自身も蜀陣へと飛び込んだ。
だが、どういうことか、そこには灯の光が白日のごとく晃々(こうこう)と輝いてはいたが、人はみな酔い伏しているだけで、ひとりとして立って振り向く者もいない。しかも倒れている人間は、ことごとく孟優の手下である。
孟優も座の中央に打ち倒れ、苦しげにのたうち回りながら、味方の蛮兵を見て自分の口を指していた。
孟獲は抱き起こしてみたが、孟優は返事もできない。計らんとして計られたのである。言うまでもなく、ひとり残らず毒酒の毒に回されていたのだった。
そうとも知らず、味方の蛮兵は諸方から焰硝や油壺(あぶらつぼ)を投げ、ここを必死に火攻めにしている。
孟獲は孟優の体を抱えて飛び出した。すると火炎の下から魏延が現れ、槍衾(やりぶすま)を向けてくる。あわてて反対へ逃げていくと、今度は趙雲の軍勢が待ち構えていた。
(07)瀘水
孟獲はいつか孟優の体も捨て、ただひとりで瀘水の上流へ逃げ奔っていた。すると岸に一艘(いっそう)の蛮舟が見える。2、30人の蛮卒も乗っていた。孟獲は、俺を乗せてすぐに河を渡れと命じ、駆けてきた勢いで舟に飛び乗った。
ところが、それと同時に舟中の人数はこぞり立ち、艫(とも。船尾)や舳(みよし。船首)に立ち分かれ、前後から孟獲の上へ押し重なる。
孟獲がわめきもがくところをしゃにむに固く縛り、「浅慮者(あさはかもの)め、我々は馬岱軍の一手だ。いざ丞相(じょうしょう。諸葛亮)の陣所へ来い」と担ぎ上げた。
★井波『三国志演義(6)』(第88回)では、馬岱自身も蛮舟に乗っており、蛮兵に変装した手勢をひきいて舟を操り待機し、孟獲をおびき寄せて生け捕りにしたとある。
★ここで孟獲三擒(さんきん)。
(08)諸葛亮の本営
蜀の本陣は、その夜も捕虜で充満していた。諸葛亮は凶悪なる者を10人斬り、そのほかはみな酒を飲ませ、あるいは懲らしめに尻を打ち叩き、あるいは物などを恵んで、ことごとく追い放す。
幕僚たちが、最後に孟獲の処置を尋ねると、諸葛亮はやおら、彼の前に床几(しょうぎ)を取り、「また来たか。孟獲」と揶揄(やゆ)した。
孟獲は舟中での失策は認めながらも、今宵の敗れは、弟が自分の計を味方から壊してしまったためである。だから戦に負けたとは思わない、とうぞぶく。
諸葛亮が少し厳を示し、約束通り汝(なんじ)の首を斬って放たんと言うと、孟獲はこれまでとは様子が変わり、ひどく生命を惜しんであわてた。
もう一度放してくれと頼む孟獲。快く一戦したいと。重ねて生け捕られたなら、今度は打ち首になっても悔いはないとも。
諸葛亮は大笑し、自ら剣を抜いて縛めを切り放す。さらに左右の幕将に言いつけ、捕らえてあった孟優を連れてこさせる。
孟獲が孟優を叱ると、諸葛亮は笑ってふたりの仲を押し隔てた。
「味方破れに懲りながら、またすぐここで兄弟喧嘩(げんか)をするなどは、すでに軍書の教えに背いているではないか。さあ仲良く帰れ。そして兄弟ひとつになって攻めてこい」
孟獲と孟優は拝謝して立ち去る。
★ここで孟獲三放。
(09)瀘水の南岸 孟獲の山城の近く
ふたりは舟を乞うて瀘水を渡り、山城へ帰ろうと登っていくと、山寨の上から馬岱が怒鳴りつけた。
「孟獲、孟優。何を望む。矢か槍か? 剣か石砲か?」
仰天して一方の峰へ逃げていくと、そこにも蜀旗林立して、翩翻(へんぽん)たる旗風の波を後ろに、趙雲が姿を現して言う。
「汝ら。丞相の大恩を忘れるなよ」
ふたりはまた逃げた。しかし行く谷間や行く山々、蜀の旗の見えないところはない。ついに彼らは遠く蛮地の南へ奔った。
管理人「かぶらがわ」より
これで孟獲、三擒三放。劉備(りゅうび)の「三顧の礼」の時は三度目で決着しましたが、今回はまだまだ続きます。
でも、孟獲とのやり取りだからこそ、これだけ続けても大丈夫なのだと思いますよ。もし劉備と諸葛亮の話が「七顧の礼」っぽいことになっていたら……。かなり嫌味なやり取りに見えたでしょうからね。
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