渭水(いすい)で司馬懿(しばい)に勝利した諸葛亮(しょかつりょう)が、祁山(きざん)の本営に戻ると、兵糧運搬にあたる苟安(こうあん)が、予定より10日余りも遅れて到着した。
楊儀(ようぎ)の口添えもあり、苟安は死罪を許され、鞭(むち)打ちの刑で済まされたが、それでも恨みを含み、そのまま魏(ぎ)に降ってしまう。苟安が成都(せいと)で流言を広めたため、不安を感じた劉禅(りゅうぜん)は、前線の諸葛亮に帰還命令を下す。
第297話の展開とポイント
(01)渭水 司馬懿の本営
このときの会戦では、司馬懿はまったく一敗地にまみれ去ったものと言える。魏軍の損害もまたおびただしい。以来、渭水の陣営は内に深く守り、再び鳴りを潜めてしまった。
(02)祁山 諸葛亮の本営
諸葛亮は、拠るところの祁山へ兵を収めたが、勝ち戦に驕(おご)るなかれと、かえって全軍を戒める。
そしていよいよ初志の目標に向かい、長安(ちょうあん)、洛陽(らくよう)へ一途進撃し、漢朝(かんちょう)一統の大業を果たさんものと固く期していた。
ところが、ここに図らずも軍中の一些事(いちさじ)から、やがて大きな蹉跌(さてつ)を来すに至る。
後方の増産運輸に力を入れていた李厳(りげん)が、永安城(えいあんじょう)から前線へ兵糧を送ってきた。
その奉行(ぶぎょう)は都尉(とい)の苟安という男だったが、酒好きのため、途中でだいぶ遊興に日を怠り、日限を10日余りも遅れて祁山に到着する。
だが苟安は、諸葛亮の前で白々しく言った。
「途中、渭水を挟んで大会戦が行われていると聞きました。万一、大事な兵糧を敵方に奪われてはと存じ、わざと山中に蟄伏(ちっぷく)して、戦いが終わるのを待って再び出かけたのでございます」
諸葛亮は皆まで聞かず、叱って言った。
「兵糧は戦いの糧。運輸の役も戦いである。それなのに、戦いを見て戦いをやめるというのは、すでに大なる怠りだ」
「しかも汝(なんじ)の言い訳は虚言にすぎない。汝の皮膚は決して山野に蟄伏して雨をしのいできたものではなく、酒の脂に緩んでいる」
「すでに運輸に罰則あり。3日誤れば徒罪(期限を決めて強制労働などに服させる刑罰)に処し、5日誤れば斬罪を加うべしとは、かねて明示してある通りだ。いまさら、いかに言葉を飾るも無用だろう」
★『三国志演義(6)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第100回)では、期限に3日遅れれば即刻、斬刑だとあった。
苟安の身は、すぐに断刑の武士たちに渡される。長史(ちょうし)の楊儀は彼が斬られることになったと聞き、大急ぎでやってきて諫めた。
「ご立腹はもっともですが、苟安は李厳が大変に重用している部下ですから、彼を処刑するときっとつむじを曲げましょう」
「いま蜀中(しょくじゅう)から銭糧の資を醵出(きょしゅつ)して、戦力増強にあたっているのは李厳ですから、その当事者と丞相(じょうしょう。諸葛亮)との間に確執が生じては、戦力の上に大きな影響がないわけにはまいりません」
「どうかここは胸をなで、苟安の死は許してやっていただきたいと思いますが」
諸葛亮は沈黙したまま、熱い湯を飲むような顔をしていた。先には、あれほど惜しんでいた馬謖(ばしょく)をすら斬らせたほど、軍律には厳しい彼なのである。けれど今はそれをすら忍んだ。
苟安は80杖(じょう)の鞭を打たれて、死を許される。しかし彼は、楊儀の恩も、諸葛亮の寛仁も思わない。逆に怒りを含み、深く諸葛亮を恨んで、夜半に陣地を脱走した。
(03)渭水 司馬懿の本営
苟安は、家来の5、6騎とともにそっと渭水を越え、魏軍に投じてしまう。司馬懿は用心深く苟安を眺めていたが、その実を見るため一策を授ける。
(04)成都
まもなく苟安は姿を変えて、蜀の成都へ入り込んだ。そして都中に諜報(ちょうほう)機関の巣を作ると、莫大(ばくだい)な金を遣い、ひたすら流言飛語を放つことを任務としていた。
この悪気流はたちまちその効を表す。蜀中の朝野は前線の諸葛亮に対して、次第に正しく見る目を失ってくる。とかく邪視し、疑惑で見るように傾いてきた。
蜀の宮中に誰が言うとなく、やがて諸葛亮は漢中(かんちゅう)に一国を建て、自らその主となる肚(はら)らしい、という風説が立ち始める。
甚だしきは、それに尾ひれを付け、流言して憚(はばか)らぬ者すらあった。
「彼の兵馬の権をもってすれば、この蜀を取ることだってできる。彼がしきりに蜀君(劉禅)の暗愚をなじったり、怨言を撒(ま)いているのは、その下心ではないか?」
都下にも同じ声が行われたが、宮中の流言の出どころは内官だった。苟安に買収された徒が浅慮(あさはか)にも私利私欲に乗せられて、思うつぼへ落ちたものである。
この結果はやがて、劉禅の勅使派遣となって具体化した。すなわち、節(せつ)を持たせて前線に勅命を伝え、「朕、大機(天下の政治)の密あり。直々、丞相に問わん。即時、成都に還れ」と召還を発したのであった。
★『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、「節は職権の行使を認めたことを示すため、皇帝が高級官員に与えたしるし。長さ180センチメートルほどの竹製の棒で、上に三重になった節旄(せつぼう。ヤクの尾で作った房)が付いている」という。
(05)祁山 諸葛亮の本営
諸葛亮は、この勅命に接するや天を仰いで大いに泣き、落涙長嘆してやまなかったという。悶々(もんもん)たる痛涙は流したが、大命は是非なく、即日大軍を引き払った。
その際、姜維(きょうい)が司馬懿の追撃を憂えると、諸葛亮はこのような指令を授ける。
「兵を五手に分け、それぞれ道を変えて退け。主力は、この陣を退くにあたり、兵1千を留めて2千の竈(かまど)を掘らせよ。翌日、退陣して宿るところには、4千の竈跡を掘り残しておくがよい」
「かくて3日目の屯(たむろ)には6、7千、5日目の野営には1万と、退くに従って倍加していくのだ」
これを聞き、姜維が尋ねた。
「むかし孫臏(そんぴん)は、兵力を加えるたびに竈の数を減じて退却し、敵を欺く計を用いて龐涓(ほうけん)を計り、大勝を得たと聞いております。いま丞相は反対に、兵を減ずるたびに竈の数を増やしておけと仰せあるのは、いかなるお考えですか?」
★この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「(孫臏は)孫子(そんし。孫武〈そんぶ〉)の後裔(こうえい)で、戦国(せんごく)斉(せい)の人。失われていた『孫臏兵法』は銀雀山(ぎんじゃくざん)から出土した」という。
★井波『三国志演義(6)』の訳者注によると、「(ここでいう孫臏が用いた計は)添兵減竈(てんへいげんそう)の法。兵の数を増やし、竈の数を減らす方法」だという。
また「戦国時代、魏の龐涓が趙(ちょう)と連合して韓(かん)を攻めた際、韓から救援を求められた斉の孫臏は、魏の都に進撃した。そのため龐涓は、斉軍の後を追う形で魏に戻ることになった。魏軍の動きを知った孫臏は、日ごとに竈の数を減らし、斉の兵士が引っ切りなしに逃亡しているように見せかけて龐涓を油断させ、昼夜兼行で追撃した魏軍に馬陵(ばりょう)で一斉攻撃をかけ、龐涓を討ち取った(『史記〈しき〉』孫子・呉起〈ごき〉列伝)」という。
諸葛亮はこう答える。
「孫臏の計を逆に行うにすぎない。よく物を知っている人間を計るには、その人間の持っている知識の裏を行くことも一策となる。司馬懿もおそらく疑って、よく深追いをなし得ないだろう」
かくて蜀軍は、続々と五路に分かれて引き揚げを開始したが、諸葛亮の予察通り、司馬懿は敵の埋伏を恐れ、敢然たる急追には出なかった。
(06)蜀軍の駐屯跡を見る司馬懿
しかし物見の報告によると、さして伏兵の計もないらしいとのこと。司馬懿は徐々に軍勢を進ませ、蜀軍の駐屯した跡を見る。場所と日を重ねるに従い、竈の数が際立って増加していた。
竈の跡が多いのは当然、兵站(へいたん)の増量を示すもの。司馬懿はいちいち検分して、用心深く考えた。
「さては、彼は退くに従って殿軍(しんがり)の兵力を強化しているな。さまで戦意の高い軍勢を、ただ退く敵と侮って追い討ちすれば、どのような反撃を受けるやもしれぬ」
さらに、苟安を成都へ送り込んで行わせた計の大効果により、諸葛亮が召還されることになったのだと思い返す。
こうして大事を取ると、ついに司馬懿は追撃を下さず終わる。そのため、諸葛亮は一騎も損ずることなく、これほどの大兵の総引き揚げを悠々と成し遂げた。
後に川口(せんこう)の旅人が、魏へ来て漏らしたうわさから、竈の数に諸葛亮の知略があったことも、やがて司馬懿の聞くところとなる。
けれど司馬懿は悔やまなかった。
「相手がほかの者では恥にもなるが、孔明(こうめい。諸葛亮のあざな)の知略にかかるのは仕方ない。彼の知謀は元来、自分などの及ぶところではないのだから」
管理人「かぶらがわ」より
この第297話で逆恨み的な動きを見せていた苟安は、『三国志演義』で創作された人物です。それはともかく、蜀の数次にわたる北伐では、いつも兵糧が問題になりますね。
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