劉禅(りゅうぜん)の許しを得て、むたび北伐に出る諸葛亮(しょかつりょう)。しかし北原(ほくげん)を攻めると見せかけ、渭水(いすい)の魏(ぎ)の本営を狙った策は、司馬懿(しばい)に看破されていた。
このため蜀軍(しょくぐん)は、北原と渭水の双方で大敗。諸葛亮は祁山(きざん)にやってきた費禕(ひい)に、呉(ご)への使いを頼む。孫権(そんけん)を説得し、魏の側面を突いてもらおうとの考えだった。
第301話の展開とポイント
(01)成都(せいと)
多年、軍需相(ぐんじゅしょう)として、重要な内政の一面に才腕を振るっていた李厳(りげん)の免職。このことは、何と言っても蜀軍の一時的な休養と、延(ひ)いては国内の諸部面の大刷新を促さずにはおかない。
★原文「李厳の退職」だが、ここは「李厳の免職」としておく。
ここにおいて諸葛亮は、「3年は内政の拡充に力を注ごう」と決意する。そしてこの間、彼は百姓を哀れみいたわった。百姓は天地か父母のように見た。
また、教学と文化の振興にも努める。児童も道を知り、礼をわきまえた。教学の根本は師弟の結びにありとして、師たる者を重んじ、その徳を涵養(かんよう)させた。
さらに、内治の根本は吏にありとして、吏風を醇化(じゅんか)し吏心を高めさせる。吏にしてひとたび瀆職(とくしょく)の恥を犯す者があれば、市にさらして、民の刑罰より数等厳罰に処した。
かくて3年の間に蜀の国力は充実し、朝野の意気もまったく一新された。諸葛亮は劉禅に奏し、六度目となる北伐に臨む。
この際にも成都人の一部では、宮門の柏樹(はくじゅ。檜〈ヒノキ〉の木)が毎夜泣くとか、南方から飛翔してきた数千の鳥群が、一度に漢水(かんすい)へ落ちて死んだなど、不吉な流言を立てて、諸葛亮の出軍を阻めようとする者もあった。
★『三国志演義(6)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第102回)では、これら不祥の兆しを太史(たいし)の譙周(しょうしゅう)が上奏している。ちなみに、鳥が漢水に落ちたという件は、「近ごろ数万羽の鳥が南から飛来し、漢水に飛び込んで死にました」と述べていた。
だが諸葛亮の大志は、決してそのような虚謬(きょびゅう)の説に弱められるものではない。
彼は一日、成都郊外にある先帝(劉備〈りゅうび〉)の霊廟(れいびょう)に詣でて、太牢(たいろう。牛・羊・豕〈し。ブタ〉)を供え、涙を流して何事か久しく祈念した。
その数日後、大軍は成都を発する。劉禅は百官を従えて城外まで見送った。
(02)漢中(かんちゅう)
蜀道の険や蜀水の危を踏み渡ること幾度。延々として、やがて軍馬は漢中へ入った。
ところがまだ戦わぬうちに、諸葛亮はひとつの悲報に接する。それは関興(かんこう)の病没だった。
漢中で勢ぞろいをなし、祁山へ進発した蜀軍は、五大部隊に分かれ、総兵34万と号する。
(03)洛陽(らくよう)
時に魏は改元の第二年を迎え、青龍(せいりゅう)2(234)年の春2月だった。昨年、摩坡(まひ。摩陂)という地方から、青龍が天に昇ったという奇異があり、これ国家の吉祥なりと、改元されたものである。
司馬懿は勇躍して詔(みことのり)を拝すと、かつて見ぬほどの大軍備を整えた。その出陣に先立ち、曹叡(そうえい)に奏する。
「かつて漢中で討たれた夏侯淵(かこうえん)の子ら4人が、常に父を蜀のために亡くした恨みを吞んで切歯扼腕(せっしやくわん)しております。願わくは今度の軍(いくさ)に、その遺子4人を伴ってまいりたいと存じますが――」
曹叡はこの願いを許した。これらの四子は、以前に失敗を招いた夏侯楙(かこうも)などとは大いに質が違っている。
兄の夏侯覇(かこうは。夏侯霸)は弓馬武芸に達し、弟の夏侯恵(かこうけい)は六韜三略(りくとうさんりゃく。『六韜』と『三略』。ともに中国古代の兵法書)を諳(そら)んじて、よく兵法に通じていた。ほかのふたりの兄弟(夏侯威〈かこうい〉と夏侯和〈かこうわ〉)も俊才の聞こえがあった。
(04)長安(ちょうあん)
長安に集結した魏の精鋭は44万と言われた。そして宿命の決戦場の渭水を前にして、従前通りに布陣する。
(05)渭水 司馬懿の本営
祁山の蜀勢も、渭水の魏勢も、戦いの回を追うごとに、その経験から地略的な攻究が進んでいた。装備や兵力は逐次増強され、これを第一回や第二回ごろの対峙(たいじ)から比べると、双方の軍容にもわずかな年月の間に著しい進歩が見える。
作戦上から今次の相違を見ると、魏は5万の工兵隊を駆使して竹木を伐採させ、渭水の上流9か所に浮き橋を架した。こうして夏侯覇と夏侯威のふた手が河を渡り、河の西に陣地を築く。
これは従来には見られなかった、魏の積極的な攻勢を示したものであるとともに、用意周到な司馬懿は、本陣の後ろにある東方の広野に一城を構築し、恒久的な基地となした。
(06)祁山 諸葛亮の本営
この恒久戦の覚悟はまた、より強く、蜀軍の備えにも看取できる。祁山に構えた5か所の陣屋は、これまでの規模とそれほど変わりない。
だが、斜谷(やこく)から剣閣(けんかく)にわたって14か所の陣屋を築き、一塁ごとに強兵を込めて、運輸の連絡と呼応連環の態勢を作った。
★剣閣については先の第294話(04)を参照。
これは、「魏を討たずんば還らじ」となす諸葛亮の意志を、無言に儼示(げんじ。厳かに示すこと)しているものにほかならない。
ここでその一塁から一報が届き、敵陣に変化のあることを告げる。
「魏の郭淮(かくわい)と孫礼(そんれい)の二軍が、隴西(ろうせい)の軍馬を領して北原へ進出し、何事か為すあらんとするもののごとく動いております」
諸葛亮は、この情報を聞いて言った。
「司馬懿は前に懲りて、隴西の道を我に断たれんことを恐れ、手配を急いだものと思われる。いま偽って、蜀が彼の恐れる隴西を突く態をなすならば、司馬懿は驚き、その主力を応援に差し向けるだろう。敵の備えなきを討つ。その虚は後ろの渭水にある」
北原は渭水の上流である。諸葛亮はこのような策を立てた。
まずは100余座の筏(いかだ)に乾いた柴(シバ)を満載させ、夜中に、水に慣れた5千の兵をすぐって北原を襲撃させる。
魏の主力が動くのを見たら、ただちに筏に火を付けて下流へ押し流し、敵の浮き橋を焼き立て、西岸の夏侯兄弟の軍勢を捕捉。また、たちどころに渭水の南岸へ兵を上げて、魏の本陣を乗っ取る。
★ここで諸葛亮の策の最後に、「渭水の南岸へ兵を上げて」とあった。これだと司馬懿の本営が、渭水を渡って南側にあることになり、この第301話(04)の記述と矛盾する。ただ、このとき渭水の南岸にも魏の陣営は築かれていたので、本営が北岸にあるのか南岸にあるのかには、それほどこだわっていないのかもしれない。
(07)渭水 司馬懿の本営
果たしてこの策がうまく魏軍を計り得るかどうかは、魏の触覚たる司馬懿その人の頭脳ひとつにある。
さすがに彼は看破し、こう言った。
「いま孔明(こうめい。諸葛亮のあざな)が上流に多くの筏を浮かべ、北原を攻めそうな擬勢を作っておる。だが、これは虚を見て筏を切り流し、それに積んだ松柴と油をもって、わが数条の浮き橋を焼き払うつもりに違いない」
司馬懿は夏侯覇と夏侯威に何事か命じ、郭淮・孫礼・楽綝(がくりん)・張虎(ちょうこ)らの諸将へも、それぞれ秘命を授け終えた。
(08)北原
やがて戦機は、蜀軍の北原攻撃から口火を切る。呉懿(ごい)と呉班(ごはん)の蜀兵は、かねての計画通り、無数の筏に焚草(やきぐさ)を積んで、河上に待機していた。
日が暮れてくる。北原の戦況は、初め魏の孫礼が打って出たが、脆(もろ)くも打ち負けて退却した。そこへ掛かった蜀の魏延(ぎえん)と馬岱(ばたい)は、敵の負けぶりがおかしいと見て、あえて深追いしなかった。
それでもたちまち両岸の物陰から魏の旗がひらめき見え、喚声や雷鼓の潮とともに、司馬懿と郭淮が刹出。魏のふたりは半円陣を結び、敵と河とを一方に見て圧縮してくる。
魏延と馬岱は命をかざして奮戦したが、とうてい勝ち目のない地勢にあった。河流へせき落とされて溺れる者、包まれて討たれる者など、大半の兵を失ってしまう。
蜀のふたりは辛くも水上へ逃げる。しかしこのころ、呉懿と呉班の手勢が待ちきれずに、大量の筏を流し始めていた。
ところがそれらの筏群は、魏軍の架けた浮き橋まで流れてこないうちに、張虎や楽綝らの手勢が別の筏で縄を張り巡らせたため、ことごとくせき止められてしまう。魏軍はそこを足場にして矢戦をしかける。
蜀兵は何らの飛び道具も備えていなかったので、筏を寄せて斬り結ぶしか手がない。蜀兵を寄せつけては、魏兵が雨のごとく矢を浴びせた。
蜀の呉班も、ついに一矢を受けて水中に落命する。そのうえ火計はまったくの失敗に帰し、蜀軍の敗亡も惨たるものだった。
(09)渭水
火計の失敗は当然、別動隊たる王平(おうへい)と張嶷(ちょうぎ)のほうへも狂いを生じさせないはずはない。この二軍は諸葛亮の命によって、渭水の対岸をうかがい、浮き橋が焼ける火を見たら、ただちに司馬懿の本陣へ突入しようと息を凝らしていた。
けれど、夜が更けても一向に上流に火光が揚がらないので、「はて、どうしたものだろう?」としびれを切らしていた。
張嶷は待ちくたびれ、逸(はや)って言う。
「対岸をうかがうに、魏陣は確かに手薄らしく思われる。いっそのこと、突っ込もうか」
だが、王平はこう言って固持し、なお根気よく火の手を待っていた。
「敵にどのような隙があろうと、ここだけの状況で作戦の機約を変えることはできない」
するとそこへ急使が着く。馬を飛ばして駆けてくるなり、大声でふたりを差し招いて告げた。
「王将軍も、張将軍も、はやはや退きたまえ。丞相(じょうしょう。諸葛亮)のご命令です。北原も味方の敗れとなり、浮き橋を焼く計もことごとく齟齬(そご)いたして、蜀勢はみな敗れ去りました」
★ここは原文「平将軍も、嶷将軍も」だったが、「王将軍も、張将軍も」としておく。
こうして急に蜀の二軍が退きだした刹那である。それまで河波の音と蘆荻(ろてき)の声しかなかった付近の闇が、一度に赤くなった。そして一発の轟音(ごうおん)が天地のしじまを破るとともに、魏の伏兵が四方八方から襲いかかってきた。
計ると思いながら、事実はまったく敵の陥穽(かんせい)の中にいたのである。かくては戦う態勢も取り得ない。王平と張嶷の二軍も散々に討たれて逃げ崩れた。
(10)祁山 諸葛亮の本営
渭水の上流と下流の全面にわたり、この夜、蜀軍が受けた兵の損害だけでも1万を超えていた。
諸葛亮は敗軍を収めて祁山へ立ち帰ったが、彼がかくのごとく計を誤ったことは珍しい。日ごろの自信にも少なからぬ動揺を与えたに違いなく、その憂いは面にも包めなかった。
ある日、諸葛亮の憂色をうかがい、長史(ちょうし)の楊儀(ようぎ)が密かに訴える。
「近ごろ魏延が丞相の陰口を叩き、とかく軍中の空気を濁しておりますが、何か原因があるのですか?」
諸葛亮は眉重くうなずき、彼の不平は今に始まったことではないと話す。
楊儀は、なぜ彼の悪態を放置しておかれるのですかと問うが、諸葛亮は、予が胸も察するがいいと答える。
楊儀は沈黙した。諸葛亮の意中を酌むにつけ、断腸の思いがあった。連戦多年、蜀軍の将星は相次いで墜(お)ち、用いるに足る勇将と言えば、実に指を折るほど少なくなっている。ともあれその中にあって、魏延の勇猛は断然、衆を超えているものがある。
いまその魏延をも除くならば、蜀軍の戦力はさらに落莫(らくばく)たらざるを得ない。諸葛亮がジッとこらえているのは、そのためであろうと楊儀は察した。
★井波『三国志演義(6)』(第102回)では、ここにあるような諸葛亮と楊儀とのやり取りは見えない。
時に成都からの用命を帯びて、尚書(しょうしょ)の費禕(ひい)が祁山へ来る。
諸葛亮は彼に会うと告げた。
「ここにご辺(きみ)ならではかなわぬ大役がある。蜀のために、予の書簡を携えて、呉へ使いに赴いてくれまいか」
費禕が承諾すると、諸葛亮は言った。
「快く承知してくれてありがたい。ではこの書簡を孫権に捧げ、なお卿(けい)の才をもって、呉を動かすことに努めてもらいたい」
諸葛亮が彼に託したものは、実に蜀呉同盟条約の発動にある。書中で祁山の戦況を縷々(るる)と告げ、切々と説いていた。
「今や魏軍の全力は、ほとんどこの地に牽引(けんいん)されております。この際、呉がかねての条約に基づいて、魏の一面をお討ちになるならば、魏は両面的な崩壊を来し、中原(ちゅうげん。黄河〈こうが〉中流域)のことはたちまちに定まります」
「しかる後は、蜀呉天下を二分して、理想的な建設を地上に興すことができましょう」
(11)建業(けんぎょう)
費禕が建業に着く。孫権は諸葛亮の書簡を見、また蜀の使いを応接するに、その礼は甚だ厚かった。
孫権が言う。
「呉といえど、決して蜀魏の戦局に冷淡なものではない。その時を見、また十分な戦力を養っていたもので、今や機は熟したと思われる」
「日を定めて、朕自ら水陸の軍勢をひきい、討魏の大旆(たいはい。大将の立てる大きな旗)を掲げて長江(ちょうこう)をさかのぼるだろう」
費禕は拝謝しつつも、その口裏の虚実をうかがった。
「おそらく魏の滅亡は100日を出でますまい。して、どのような進路をお取りになりますか?」
孫権は言下に語る。
「まず総勢30万を発し、居巣門(きょそうもん)から魏の合淝(がっぴ。合肥)、彩城(さいじょう)を取る」
★彩城というのがわからなかった。なお井波『三国志演義(6)』(第102回)では、「居巣から進撃して、魏の新城(しんじょう。合肥新城)を攻略しよう……」となっていた。あまり自信はないが、「合淝、彩城」は「合肥新城(合淝新城)」と混同されたものかも?
「また、陸遜(りくそん)や諸葛瑾(しょかつきん)らに江夏(こうか)と沔口(べんこう)を討たせ、襄陽(じょうよう)へ突入させる。さらに、孫韶(そんしょう)や張承(ちょうしょう)らを広陵(こうりょう)地方から淮陽(わいよう)へ進ませるだろう」
★井波『三国志演義(6)』(第102回)では、「孫韶・張承らに広陵から出撃し、淮陰(わいいん)を攻略させる」となっていた。
酒宴となってくつろいだとき、今度は孫権が費禕に尋ねた。
「いま諸葛亮のそばにいて、功労を記し、兵糧その他の軍政を助けている者は誰だな?」
費禕は、長史の楊儀だと答える。続けて孫権が、先鋒にあたる勇将についても尋ねると、費禕は、まず魏延でしょうかと答えた。
★井波『三国志演義(6)』(第102回)では、孫権は諸葛亮の先鋒にあたる人物についてのみ尋ねており、楊儀の話は出ていない。
すると孫権は、意味ありげに打ち笑って言う。
「朕はまだ、楊儀や魏延の人物は見ていないが、多年の行状で聞き知るところ、いずれも蜀を負うほどの人物ではなさそうだ。どうして諸葛亮ほどの人が、そのような小人輩を用いているのか?」
費禕は言葉もなく、その場はよいほどに紛らわせた。
(12)祁山 諸葛亮の本営
費禕は祁山に戻って復命した後、孫権の言葉をそのまま語る。
諸葛亮は嘆息して、ひとりかこった。
「さすがに孫権も具眼の士である。いかに良く見せようとしても天下の目は欺けないものだ。魏延や楊儀の小さいことは、われ疾(と)くに知るも、呉の主君までが見抜いていようとは思わなかった」
管理人「かぶらがわ」より
司馬懿に計を看破され、渭水一帯で大敗を喫した諸葛亮。蜀の人材難を、呉にあって見抜いた孫権。そのことを費禕に語ってしまうところが、また彼らしくもありました。
ですが孫権に言われるまでもなく、蜀の人材不足は深刻。いつも諸葛亮自身が総指揮を執り、作戦の立案から何から、ほぼひとりでやってしまうわけですから――。これは大変だったでしょう。
吉川『三国志』や『三国志演義』では話の展開上、魏も司馬懿ひとりが目立っていますけど、実際の魏では、北方から南方まで各地に優秀な司令官が派遣されていました。そもそも国力が違いすぎるのですよね……。
テキストについて
『三国志』(全10巻)
吉川英治著 新潮社 新潮文庫
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。
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