涼茂(りょうぼう) ※あざなは伯方(はくほう)

【姓名】 涼茂(りょうぼう) 【あざな】 伯方(はくほう)

【原籍】 山陽郡(さんようぐん)昌邑県(しょうゆうけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・涼茂伝』あり。

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学識を備えた能吏

父母ともに不詳。

涼茂は若いころから学問が好きで、議論するときは経典(けいてん)を根拠に判断を下した。

曹操(そうそう)に招かれて司空掾(しくうえん)となり、優秀な成績で推挙されて侍御史(じぎょし)に転ずる。

曹操が司空を務めていた期間は196~208年。

当時の泰山(たいざん)には多くの盗賊がいたが、涼茂が泰山太守(たいざんたいしゅ)に任ぜられると、10か月の間に幼児を背負ってやってきた者が1千家以上もあったという。

後に涼茂は楽浪太守(らくろうたいしゅ)に転じたものの、遼東(りょうとう)の公孫度(こうそんたく)は領内を通った彼を引き留め、任地へ行けないようにした。

それでも涼茂は屈せず、公孫度が曹操不在の鄴(ぎょう)を攻めると言いだすと、これを諫めたりもした。

その後、涼茂は魏郡太守(ぎぐんたいしゅ)や甘陵国相(かんりょうこくしょう)を務め、行く先々で治績を上げた。

211年、曹丕(そうひ)が五官中郎将(ごかんちゅうろうしょう)になると、涼茂はその長史(ちょうし)に選ばれて左軍師(さぐんし)に転じた。

213年、魏が建国されると、涼茂は尚書僕射(しょうしょぼくや)に昇進し、中尉(ちゅうい)や奉常(ほうじょう)を歴任する。

曹丕が王太子だったとき(217~220年初め)には太子太傅(たいしたいふ)を務め、大変な敬意と礼遇を受けた。そして、涼茂は在職中に死去(時期は不明)したという。

管理人「かぶらがわ」より

涼茂に関する記事は経歴の説明が多く、コメントしにくいです。

目を引くのは公孫度への諫言ですが、このことについて裴松之(はいしょうし)が以下のような疑問を呈していました。

「本伝では『公孫度は曹公(曹操)が遠征し、鄴に防備がないと聞いた』という。とすれば、太祖(たいそ。曹操)が鄴を平定した後のことである」

「(『三国志』の)『公孫度伝』を考察すると、公孫度は建安(けんあん)9(204)年に亡くなっている」

「太祖もこの年(204年)に鄴を平定しており、それ以後の遠征は(207年に)柳城(りゅうじょう)へ北征したことがあるだけだ。(曹操が)柳城を討伐した年、すでに公孫度は生きていなかった」

どこに誤りがあるのか(またはないのか)の判断がつかなかったので、この件は記事中でも詳しく採り上げませんでした。

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