程昱(ていいく) ※あざなは仲徳(ちゅうとく)、魏(ぎ)の安郷粛侯(あんきょうしゅくこう)

【姓名】 程昱(ていいく) 【あざな】 仲徳(ちゅうとく)

【原籍】 東郡(とうぐん)東阿県(とうあけん)

【生没】 ?~?年(80歳?)

【吉川】 第042話で初登場。
【演義】 第010回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・程昱伝』あり。

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充足を知る者は恥辱を受けない、安郷粛侯(あんきょうしゅくこう)

父母ともに不詳。息子の程武(ていぶ)は跡継ぎで、程延(ていえん)も同じく息子。

程昱は身長が8尺(せき)3寸もあり、顎と頰に見事なひげを生やしていた。

184年、黄巾(こうきん)の乱が起こると、東阿県丞(とうあけんじょう)の王度(おうたく)は賊に呼応し県の倉庫を焼き払う。県令(けんれい)のほうは城壁を越えて逃げ、官民も老幼を背負い、東の渠丘山(きょきゅうざん)へ走った。

程昱は人を遣って様子を探らせ、王度らは県城を得たものの守ることができず、西の城外5、6里に留まっていることを知る。そこで豪族の薛房(せつぼう)らを説き、城に戻って固守するよう勧めた。

薛房らは同意したが、官民は城に戻るのを嫌がり、「賊は西にいる。我らには東(に逃げる手)があるだけだ」と言う。

そこで程昱は一策を案じ、密かに数騎を遣って東の山上に幟(のぼり)を掲げさせる。

さらに薛房らに「もう賊は来ているぞ!」と大声で言わせ、すぐさま山を下りて県城へ向かう。すると官民もあわてて後を追い、県令を探し出して城を守った。

王度らは県城を攻め落とせないまま去ろうとし、官民をひきいた程昱の急追を受けて敗走した。これにより東阿県は事なきを得る。

190年、兗州刺史(えんしゅうしし)の劉岱(りゅうたい)に招聘(しょうへい)されたが、程昱は応じなかった。

このころ劉岱は袁紹(えんしょう)と公孫瓚(こうそんさん)の両者と手を結んでおり、袁紹の妻子を領内に住まわせる一方、公孫瓚配下の范方(はんほう)ひきいる騎兵の支援も受けていた。

翌191年、袁紹と公孫瓚が仲たがいすると、公孫瓚は袁紹軍を撃破して劉岱に使者を遣り、袁紹の妻子を引き渡すよう求める。

そして配下の范方に対し、もし劉岱が袁紹の妻子を引き渡さない場合は騎兵をひきいて帰還するよう命じ、袁紹を討伐した後で劉岱も討伐する考えをほのめかす。

劉岱は連日の評議を経ても決心がつかず、別駕(べつが)の王彧(おういく)の進言を容れ、程昱を招いて意見を聴く。

程昱は、公孫瓚は袁紹の敵ではないと断じ、いま袁紹軍を撃破したと言っても結局、公孫瓚は袁紹に捕らえられるだろうと述べる。

劉岱は程昱の説に従い、范方は騎兵をひきいて帰還することになったが、まだ彼が着かないうちに、やはり公孫瓚は袁紹に大破されてしまう。

劉岱は騎都尉(きとい)とするよう上奏したが、程昱は病気を理由に辞退。

翌192年、劉岱が黄巾賊との戦いで討ち死にすると、曹操(そうそう)は兗州に入って程昱を召し寄せる。

これに応じて程昱が行こうとすると、郷里の人々は言った。

「先(劉岱の時)と今では何と(態度が)矛盾することか」

だが、程昱は笑って取り合おうとしなかったという。彼は曹操と語り合って気に入られ、寿張県令(じゅちょうけんれい)を代行することになった。

翌193年、曹操が徐州(じょしゅう)の陶謙(とうけん)を討伐したとき、程昱は荀彧(じゅんいく)とともに鄄城(けんじょう)で留守を預かる。

翌194年、張邈(ちょうばく)らが曹操の不在を突いて反旗を翻し、兗州に呂布(りょふ)を迎え入れたため州内の郡県が呼応した。それでも鄄城・范(はん)・東阿の3つの城だけは動揺しなかった。

呂布軍から降った者が、陳宮(ちんきゅう)が兵をひきいて東阿を取り、別に氾嶷(はんぎょく)に范を取らせるつもりだと言ったので、官民は恐慌を来す。

程昱は荀彧の意見に従って東阿へ帰郷。その途中で范を訪ね、県令の靳允(きんいん)を説得する。

靳允は母や弟、妻子を呂布側に捕らえられていたが、程昱の説得に応じ、このまま范を固守することに同意した。

このときすでに氾嶷が范に来ており、靳允は会見の場に伏せた兵を使って氾嶷を刺殺。城に帰ると兵を指揮して守りを固める。

程昱のほうでも、別に騎兵を遣って倉亭津(そうていしん)の渡し場を断ち切らせたため、陳宮の兵は黄河(こうが)を渡れなかった。

程昱が東阿に着くと、県令の棗祗(そうし)は官民を激励して城の守りを固めていた。

さらに、兗州の従事(じゅうじ)の薛悌(せつてい)も程昱と相談し、最後まで3つの城を守り抜き、曹操の帰還を待つ。

無事に帰還した曹操は、程昱の手を取り働きを評価。彼を東平国相(とうへいこくしょう)として范に駐屯させた。

この年、曹操は濮陽(ぼくよう)で呂布と戦いたびたび負けたが、イナゴの発生により双方とも引き揚げる。

そこへ袁紹から使者が来て、曹操に手を結ぼうと持ちかけ、家族を鄴(ぎょう)に住まわせるよう勧めた。

曹操は兗州を失ったばかりで兵糧も尽きていたため、袁紹の申し出を受けようとする。

しかし、ちょうど使いから帰った程昱が、袁紹の下風に立つことができますかと再考を促し、曹操を翻意させた。

196年、許(きょ)への遷都が行われ、程昱は尚書(しょうしょ)に任ぜられる。

だが、依然として兗州が安定しないため、彼は東中郎将(とうちゅうろうしょう)・済陰太守(せいいんたいしゅ)・都督兗州事(ととくえんしゅうじ)を務めることになった。

この年、徐州を失った劉備(りゅうび)が曹操のもとに身を寄せる。程昱は劉備の殺害を進言したが、曹操は聞き入れなかった。

199年、曹操が劉備を徐州へ派遣し、袁術(えんじゅつ)を迎え撃たせる。このときも程昱は郭嘉(かくか)とともに諫め、劉備に兵を貸すことへの懸念を述べた。

曹操は後悔して劉備を追わせたものの間に合わず、そのうち袁術も病死する。

徐州に行き着いた劉備は、曹操配下の徐州刺史(じょしゅうしし)の車冑(しゃちゅう)を殺害したうえ、兵を挙げて背いた。

しばらくして程昱は振威将軍(しんいしょうぐん)に昇進。

この年、袁紹が黎陽(れいよう)から南下して黄河を渡ろうとしたとき、程昱はわずか700の兵で鄄城を守っていた。

曹操は2千の兵を増援しようとしたが、程昱は断って言う。

「袁紹は10万の軍勢を抱えており、向かうところ敵なしと思い込んでおります。いま私の兵が少ない様子を見れば、必ずや軽く見て、押し寄せては来ないでしょう」

「ですが兵を増やせば、袁紹は通過する際に攻めずにはおきません。そうなれば敵が勝ち、わが方は援軍とも無駄に損なうことになってしまいます。どうか殿にはお疑いなさいますな」

曹操は程昱の言葉に従って援軍を送らず、袁紹も予想通り鄄城を攻めなかった。曹操は感嘆し、賈詡(かく)にこう言ったという。

「程昱の肝は孟賁(もうほん)や夏育(かいく)以上だな」

孟賁、夏育とも戦国(せんごく)時代、秦(しん)の武王(ぶおう)に仕えた勇士。

その後、程昱は山や沼地に逃亡していた者たちを駆り集め、数千の精鋭を手にする。こうして曹操と黎陽で合流し、袁譚(えんたん)と袁尚(えんしょう)の討伐に加わり、ふたりを敗走させた。

程昱は奮武将軍(ふんぶしょうぐん)に任ぜられ、安国亭侯(あんこくていこう)に封ぜられる。

208年、曹操が荊州(けいしゅう)の討伐に乗り出すと、劉備は孫権(そんけん)に助けを求めた。みな孫権は劉備を殺すに違いないと考えたが、程昱の予想は違う。

それは、孫権を策謀に優れた人物としながらも、ひとりでは我らと敵対できないと見るもので、劉備には英名があるうえ、配下の関羽(かんう)と張飛(ちょうひ)は1万人を相手に立ち向かえる。孫権は彼らを助けとし、我らに抵抗するに違いないとした。

さらに、この困難な状況を乗り越えれば両者は分裂するとも見ており、それを利用して劉備は成功を収め、もう我らが彼を殺すことは不可能になるだろうと語った。

結局、孫権は劉備に多大な援助を与えて曹操に抵抗させる。それでも曹操の手により、中原(ちゅうげん。黄河中流域)は次第に平定されていった。

あるとき曹操は程昱の背中をたたいて言う。

「兗州での敗戦の折にきみの言葉を採り上げていなかったら、私はここまで来ることができただろうか――」

一門の者は牛や酒を捧げて大宴会を開いたが、程昱は『老子(ろうし)』の言葉を引き、こう言った。

「『充足を知る者は恥辱を受けない』という。私は引退する」

そして自分から兵権を返上し、家の門を閉ざして外出しなくなった。

程昱は強情で、他人と衝突することが多かった。そのため彼が謀反を企んでいると告げ口する者まであったが、曹操からの下賜や待遇はますます手厚いものだった。

217年?、復帰して衛尉(えいい)に任ぜられたが、やがて中尉(ちゅうい)の邢貞(けいてい)と威儀を争い免職になる。

217年、初めて魏に衛尉卿(えいいけい。衛尉)とその属官が置かれた。

220年、曹丕(そうひ)が帝位に即くと再び衛尉となり、安郷侯に爵位が進んで300戸の加増を受ける。以前と合わせて封邑(ほうゆう)は800戸となった。

曹丕は程昱を公(宰相)にするつもりだったが、その矢先に死去(時期は不明)した。このとき80歳だったともいう。

曹丕は涙を流し、車騎将軍(しゃきしょうぐん)の官位を追贈したうえ粛侯と諡(おくりな)した。息子の程武が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王沈(おうしん)の『魏書』には、以下のようにありました。

「程昱は若いころ、泰山(たいざん)に登って両手で太陽を捧げる夢をよく見た。彼は不思議に思い、このことを荀彧に話した」

「兗州が曹操に反旗を翻すと、程昱のおかげで3つの城を保持することができた。そのとき荀彧は曹操に、程昱がよく見るという、例の夢の話を聞かせた」

「すると曹操が言った。『卿(きみ)は最後まで私の腹心でいてくれるに違いない』」

「程昱の本名は立(りゅう)という。そこで曹操は立の字の上に日の字を加え、昱と改名させた」

程立でも悪くはなさそうですけど、やはり程昱のほうが見栄えがしますね。

程昱の没年はイマイチはっきりしませんが、曹丕が帝位にあったときなら220~226年のこと。上で挙げた「80歳で亡くなった」というのは、同じく本伝の裴松之注に引く王沈の『魏書』によるもの。

程昱が曹操に仕えたのは192年のことですから、曹丕との付き合いを含めても30年ぐらいでしょうか? 仕えた時点で結構な年配だったのですね。

彼の性格を考えると、公への昇進話を受けたかどうか――。

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