【姓名】 龐淯(ほういく) 【あざな】 子異(しい)
【原籍】 酒泉郡(しゅせんぐん)表氏県(ひょうしけん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・龐淯伝』あり。
己を顧みない忠烈ぶり
父は龐子夏(ほうしか)、母は龐娥(ほうが。趙安〈ちょうあん〉の娘なので正しくは趙娥)。息子の龐曾(ほうそう)は跡継ぎ。
龐淯は初め涼州(りょうしゅう)の従事(じゅうじ)として、破羌県長(はきょうけんちょう)を代行する。
209年、武威太守(ぶいたいしゅ)の張猛(ちょうもう)が反乱を起こし、涼州刺史(りょうしゅうしし)の邯鄲商(かんたんしょう)を殺害。張猛は「あえて邯鄲商を弔う者があれば、容赦なく死刑に処す」と布告する。
しかし、これを聞くと龐淯は官を捨て、昼夜兼行で邯鄲商の遺体の安置所に駆けつけ号泣した。
その後、龐淯は懐中に匕首(あいくち)を忍ばせて張猛の屋敷へ行き、会見の席で刺殺しようとする。
結局、事を果たせなかったが、張猛は龐淯が義士であるとわきまえて殺さなかった。
この一件により、龐淯の名は忠烈さをもって聞こえ渡り、酒泉太守の徐揖(じょゆう)に請われて主簿(しゅぼ)となった。
後に郡民の黄昂(こうこう)が反乱を起こして城を包囲すると、龐淯は妻子を捨てて夜間に城壁を乗り越え、張掖(ちょうえき)と燉煌(とんこう)の両郡に危急を知らせた。
初め両郡では龐淯の言葉を疑い、兵を出そうとしなかったが、彼が剣に身を伏せて自害しようとしたため、その義心に動かされる。
だが、援軍が到着しないうちに酒泉の城邑(まち)は陥落し、徐揖も死んでいた。龐淯は徐揖の遺体を本籍の郡まで送り届け、3年の喪に服してから帰還する。
曹操(そうそう)は話を聞くと、龐淯を召して掾属(えんぞく。属官)とした。
220年、曹丕(そうひ)が帝位に即くと、龐淯は駙馬都尉(ふばとい)に任ぜられる。やがて西海太守(せいかいたいしゅ)に昇進し、関内侯(かんだいこう)に封ぜられた。
後に龐淯は中央へ召し還され、中散大夫(ちゅうさんたいふ)を務めた後で死去(時期は不明)し、息子の龐曾が跡を継いだ。
管理人「かぶらがわ」より
正史『三国志』において、雍涼(ようりょう)の出身者からは、忠義の尽くし方が激しい人物が数多く採り上げられている印象を受けます。
学者は少ない地域だったのでしょうけど、彼らのように熱く真っすぐな態度には潔さを感じました。
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