阮籍(げんせき) ※あざなは嗣宗(しそう)、竹林七賢(ちくりんのしちけん)のひとり

【姓名】 阮籍(げんせき) 【あざな】 嗣宗(しそう)

【原籍】 陳留郡(ちんりゅうぐん)尉氏県(いしけん)

【生没】 210~263年(54歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・王粲伝(おうさんでん)』に付された「阮籍伝」あり。

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大志を抱きながらも変わり者を装う、竹林七賢(ちくりんのしちけん)のひとり

父は阮瑀(げんう)だが、母は不詳。阮熙(げんき)は兄。阮渾(げんこん)という息子がいた。

阮熙の名は『三国志』には出てこない。

阮籍は文学的な才能が豊かだったが、世間の拘束をはねつけて思いのままに振る舞う。

寡欲な生き方を貫き、荘周(そうしゅう。荘子〈そうし〉)を模範とした。官位は歩兵校尉(ほへいこうい)まで昇った。

管理人「かぶらがわ」より

登場箇所が少ないためコメントしにくいです。

本伝には上で挙げた程度の記事しかなく、ここから彼の人物像をうかがい知るのは困難(というか不可能)。

なので、以下に本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く孫盛(そんせい)の『魏氏春秋(ぎししゅんじゅう)』からいくつか拾っておきます。

「阮籍は闊達(かったつ)で、礼儀作法やしきたりにはこだわらなかった。だが極めて孝行で、服喪中は通常の決まりにこそ従わなかったものの、死ぬほどまで痩せ衰えた」

「兗州刺史(えんしゅうしし)の王昶(おうちょう)が阮籍を招いて会見したが、丸一日、言葉を交わすことさえできなかった。王昶は感嘆し、計り知れない人物だと考えた」

「この話を聞いた太尉(たいい)の蔣済(しょうせい)が阮籍を招聘(しょうへい。242年のことだという)したため、尚書郎(しょうしょろう)や曹爽(そうそう)の参軍(さんぐん)を務めたが、やがて病気を理由に辞職して郷里へ帰った」

「それから1年余りして(249年に)曹爽が処刑されると、阮籍は太傅(たいふ)の司馬懿(しばい)により従事中郎(じゅうじちゅうろう)に取り立てられる」

「(251年に司馬懿の跡を継ぎ、翌252年に大将軍〈だいしょうぐん〉となった)司馬師(しばし)の下でも同じ官職を務めた」

「やがて朝廷では、名のある阮籍を高官に取り立てて尊重すべきとの意見が多くなる。ところが、阮籍は多事多難な時代であることを考え、ただ俸禄が目当てで仕官していただけだった」

「その後、歩兵校尉が欠員になると、阮籍は望んで就任する。歩兵校尉の調理場に美酒が多く、料理人に酒造りの名人がいると聞いたからだった」

「こうして阮籍は思いのままに酒を飲み、世間のことなどきれいさっぱり忘れていた」

また「阮籍は人の欠点をあげつらわなかったので、おのずと高い人望を集めた」とあり、「礼儀作法にやかましい何曾(かそう)らからは目の敵(かたき)にされた」ともありました。

それでも「大将軍の司馬昭(しばしょう)がかばい続けたので、阮籍は寿命を全うすることができた」のだとも。

255年に司馬師が亡くなると、代わって弟の司馬昭が大将軍に任ぜられた。

唐代(とうだい)に編纂(へんさん)された『晋書(しんじょ)』には「阮籍伝」がありますが、そちらを吟味できていないので、この記事も中途半端なものになってしまいました。いずれ加筆できればと思います。

なお、竹林七賢に数えられるのは、阮籍・嵆康(けいこう)・山濤(さんとう)・向秀(しょうしゅう)・劉怜(りゅうれい)・阮咸(げんかん。阮籍の甥)・王戎(おうじゅう)の7人です。

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