【姓名】 王戎(おうじゅう) 【あざな】 濬沖(しゅんちゅう)
【原籍】 琅邪郡(ろうやぐん)臨沂県(りんぎけん)
【生没】 234~305年(72歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 第120回で初登場。
【正史】 登場人物。
竹林七賢(ちくりんのしちけん)のひとり
父は王渾(おうこん)だが、母は不詳。
王戎は若いころから、荀寓(じゅんぐう)・裴楷(はいかい)・杜黙(ともく)とともに都で名を知られた。
やがて王戎は鍾会(しょうかい)の推薦を受け、裴楷ともども司馬昭(しばしょう)の掾(えん。属官)に取り立てられる。その後、ふたりは高官を歴任するまでになった。
279年、晋(しん)の司馬炎(しばえん)が呉(ご)への総攻撃を命ずると、王戎も建威将軍(けんいしょうぐん)として武昌(ぶしょう)へ進軍する。
翌280年、呉の平定時の功により、王戎は安豊侯(あんぽうこう)に封ぜられた。
290年、吏部尚書(りぶしょうしょ)から太子太傅(たいしたいふ)に転ずる。
翌291年、尚書右僕射(しょうしょゆうぼくや)に転任。
297年、司徒(しと)に昇進。
304年、司馬衷(しばちゅう)が大軍をひきい、成都王(せいとおう)の司馬穎(しばえい)を討伐するべく親征した際、王戎も従軍する。そして翌305年、72歳で死去した。
管理人「かぶらがわ」より
(『三国志』では)登場箇所が少ないためコメントしにくいです。
唐代(とうだい)に編纂(へんさん)された『晋書(しんじょ)』には「王戎伝」がありますが、そちらを吟味できていないので、この記事も中途半端なものになってしまいました。いずれ加筆できればと思います。
『晋書』(武帝紀〈ぶていぎ〉)および『晋書』(恵帝紀〈けいていぎ〉)からは、王戎の官職の変遷が少しうかがえただけでした。事績が晋代にかかっている人物は扱い方が難しいですね。
なお、竹林七賢に数えられるのは、阮籍(げんせき)・嵆康(けいこう)・山濤(さんとう)・向秀(しょうしゅう)・劉怜(りゅうれい)・阮咸(げんかん。阮籍の甥)・王戎の7人です。
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