【姓名】 趙雲(ちょううん) 【あざな】 子龍(しりょう)
【原籍】 常山郡(じょうざんぐん)真定県(しんていけん)
【生没】 ?~229年(?歳)
【吉川】 第132話で初登場。
【演義】 第007回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・趙雲伝』あり。
劉備(りゅうび)を支えた名将のひとり、当陽(とうよう)で幼い劉禅(りゅうぜん)の身を守り抜く、諡号(しごう)は順平侯(じゅんぺいこう)
父母ともに不詳。息子の趙統(ちょうとう)は跡継ぎで、趙広(ちょうこう)も同じく息子。
趙雲は初め公孫瓚(こうそんさん)に仕えていたが、192年に公孫瓚が劉備を遣り、青州刺史(せいしゅうしし)の田楷(でんかい)を助けて袁紹(えんしょう)を防がせたとき、趙雲は劉備の主騎(騎兵隊長)を務める。
★公孫瓚と劉備は若いころ涿郡(たくぐん)の盧植(ろしょく)の下で、ともに経書を学んだ同門の間柄。
208年、曹操(そうそう)の追撃を受けた劉備が当陽の長阪(ちょうはん)で追いつかれ、妻子を捨てて南方へ逃走した際、趙雲は幼い劉禅を抱き、その母の甘夫人(かんふじん)ともども守り抜いた。後に牙門将軍(がもんしょうぐん)に昇進。
211年、劉備が劉璋(りゅうしょう)の要請を受けて蜀へ入り、翌212年には葭萌(かぼう)から反転して劉璋を攻めた。
214年春、荊州(けいしゅう)に残っていた趙雲も、諸葛亮(しょうかつりょう)や張飛(ちょうひ)らとともに軍勢をひきいて長江(ちょうこう)をさかのぼり、手分けして益州(えきしゅう)の郡県の平定にあたる。
このとき趙雲は、江州(こうしゅう)から別の川を使って江陽(こうよう)に進み、成都(せいと)で劉備との合流を果たす。
同年夏、劉璋が劉備に降伏。こうして益州が平定されると、趙雲は翊軍将軍(よくぐんしょうぐん)に任ぜられた。
223年、趙雲は中護軍(ちゅうごぐん)・征南将軍(せいなんしょうぐん)に昇進し、永昌亭侯(えいしょうていこう)に封ぜられる。後に鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)に転じた。
227年、諸葛亮に付き従って漢中(かんちゅう)に駐留。
翌228年、諸葛亮が出兵して斜谷(やこく)を通ると宣伝したため、魏(ぎ)の曹真(そうしん)は、その方面へ大軍を繰り出す。
趙雲は鄧芝(とうし)とともに囮(おとり)の部隊をひきいて魏軍の主力を引きつけ、この間に諸葛亮は本軍をもって祁山(きざん)を攻めた。
趙雲らは箕谷(きこく)で敗れたものの、残兵をまとめて巧みに退いたので、損害は小規模にとどまる。それでも帰還後は鎮軍将軍(ちんぐんしょうぐん)に降格された。
翌229年、趙雲は死去して順平侯(じゅんぺいこう)と諡(おくりな)される。息子の趙統が跡を継いだ。
★趙雲に諡号(しごう)が贈られたのは、ずっと後の、蜀の景耀(けいよう)4(261)年のこと。
管理人「かぶらがわ」より
正史『三国志』の「蜀書」については、おおむね列伝の記事はあっさりとしていますが、この趙雲もその例に漏れません。
『三国志演義』や吉川『三国志』で使われている数多くの関連エピソードは、本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『趙雲別伝(ちょううんべつでん)』に見えるものでした。
趙雲の立派な風貌に始まり、公孫瓚のもとでの劉備との出会いと別れ、そして再会。
(209年に)桂陽太守(けいようたいしゅ)を趙範(ちょうはん)と交代した際、趙範の兄と死別していた樊氏(はんし)を、趙雲が娶(めと)らなかった話。
劉備に嫁いでやりたい放題だった孫権(そんけん)の妹の孫夫人に対し、趙雲が命を受けて奥向きの取り締まりにあたった話。
(211年に)劉備が劉璋の要請を受けて蜀へ向かった後、密かに帰国を企てた孫夫人の手から、張飛とともに劉禅を取り返した話。
(214年の)劉備の益州平定後、成都の城内にある屋敷や、城外の田畑などを諸将に分け与えてはどうかという意見が出た際、これに反対を唱えた話。
(219年の)曹操との漢中攻防戦における、自陣を利用した空城計。
(221年の)劉備の孫権討伐の東征を諫めた話など、有名なところはほぼ『趙雲別伝』から採られているようです。
物語の中ではイメージが湧きやすかった趙雲ですけど、史実からは細部がつかみづらい印象を受けました。
並外れた武勇に加え、冷静沈着な人柄だったことはうかがえますが、位階の点でイマイチ突き抜けていないのはなぜなのでしょうね?
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