【姓名】 張裕(ちょうゆう) 【あざな】 南和(なんか)
【原籍】 蜀郡(しょくぐん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・周羣伝(しゅうぐんでん)』に付された「張裕伝」あり。
たびたび劉備(りゅうび)の怒りを買い、自身の予見通りに刑死
父母ともに不詳。
初め張裕は、劉璋(りゅうしょう)の下で従事(じゅうじ)を務めた。
211年、劉備が劉璋の要請を受けて益州(えきしゅう)へ入ると、ふたりは涪(ふう)で会見した。その際、張裕は劉璋のそばに控えていたが、劉備にひげのことをからかわれたので、不遜な言葉で応ずる。
214年、劉備が成都(せいと)で劉璋を降した後、張裕は劉備に仕え、益州の後部司馬(こうぶしば)に転じた。
218年、劉備が漢中(かんちゅう)の支配権を巡って曹操(そうそう)と戦おうとしたとき、儒林校尉(じゅりんこうい)の周羣に下問がある。
周羣はこのように答えた。
「その地を得ることはできますが、その民を得ることはできないでしょう。もし一部隊を差し向けられる程度なら、必ず不利な状況に陥ります。注意して慎重に対処なさるべきです」
張裕は周羣と同様、自然現象などから未来の兆候を読み取る技術に通じており、天性の才能では周羣をも上回っていると目されていた。
張裕は劉備を諫めて言った。
「漢中のことで争うべきではありません。必ずわが軍が不利な状況に陥ります」
劉備は張裕の意見を退けたが、そのうちことごとく周羣の予言通りになる。
また、張裕は密かに人に告げた。
「庚子(こうし)の年(220年)に天下の代替わりがあり、劉氏の世は終わりを迎える。主君(劉備)は(214年に)益州を得られてより9年後、寅年(とらどし。222年)から卯年(うどし。223年)の間に、これを失われる(崩御〈ほうぎょ〉する意)だろう」
この話を劉備に密告する者があった。劉備は(211年の)涪における張裕の発言を根に持っており、このたびの失言もあって腹立たしさが増す。
そこで、張裕の漢中争奪についての諫言が当たらなかったことを問題視し、彼を投獄して処刑しようとする。
諸葛亮(しょかつりょう)が上表して減刑を請うたものの、劉備は聞き入れず、張裕を市場で処刑(時期は不明)させた。
だが、後の魏氏(ぎし。魏の曹丕〈そうひ〉)の即位や劉備の崩御は、みな張裕の話していた時期に起きたのだった。
管理人「かぶらがわ」より
本伝によると、張裕は観相術にも通じていたそうで、いつも鏡に自分の顔を映しては、自身が刑死する運命であることを見て取り、鏡を地面に叩きつけていたという。
何でも予測できる能力も、こうなると善しあしですね。
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