姜維(きょうい) ※あざなは伯約(はくやく)

【姓名】 姜維(きょうい) 【あざな】 伯約(はくやく)

【原籍】 天水郡(てんすいぐん)冀県(きけん)

【生没】 202~264年(63歳)

【吉川】 第280話で初登場。
【演義】 第092回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・姜維伝』あり。

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たび重なる出兵の評価が分かれる将軍

父は姜冏(きょうけい)だが、母は不詳。

姜維は幼いころに父を亡くし、母とともに暮らした。彼は鄭玄(ていげん。じょうげん)の学問を好み、郡に仕えて上計掾(じょうけいえん)となり、州から召されて従事(じゅうじ)に任ぜられる。

むかし姜冏が郡の功曹(こうそう)だったとき、羌族(きょうぞく)の反乱に遭い、身をもって郡将を守った末に戦死した。このため息子の姜維が中郎(ちゅうろう)の官位を賜り、本郡の軍事に参与することになった。

228年、蜀の丞相(じょうしょう)の諸葛亮(しょかつりょう)が祁山(きざん)に進出してくる。

このとき魏(ぎ)の天水太守(てんすいたいしゅ)の馬遵(ばじゅん)は巡察中で、姜維をはじめ、功曹の梁緒(りょうしょ)、主簿(しゅぼ)の尹賞(いんしょう)、主記(しゅき)の梁虔(りょうけん)らも随行していた。

馬遵は、蜀軍の来攻に魏の諸県が呼応していると聞くと、夜間に逃亡して上邽(じょうけい)に立て籠もる。

姜維らは馬遵の逃亡に気づいて追いかけたものの、城へ入れてもらえず、帰り着いた冀県でも入城を拒まれてしまう。そこでやむなく連れ立って諸葛亮に降り、母とは離ればなれになった。

姜維は蜀で倉曹掾(そうそうえん)に任ぜられ、奉義将軍(ほうぎしょうぐん)の官位を加えられたうえ、当陽亭侯(とうようていこう)に封ぜられる。後に中監軍(ちゅうかんぐん)・征西将軍(せいせいしょうぐん)に昇進した。

234年、諸葛亮が陣没すると、姜維は成都(せいと)に帰還。右監軍(ゆうかんぐん)・輔漢将軍(ほかんしょうぐん)として諸軍を統率することになり、平襄侯(へいじょうこう)に爵位が進む。

238年、姜維は大将軍(だいしょうぐん)の蔣琬(しょうえん)に付き従い、漢中(かんちゅう)に駐屯。

翌239年、蔣琬が大司馬(だいしば)に昇進すると、姜維は司馬に任ぜられ、一軍をひきいて西方の魏領への進攻を繰り返した。

翌240年、姜維は隴西(ろうせい)に進出するも、魏の郭淮(かくわい)に彊中(きょうちゅう)まで追撃されて撤退。

243年、姜維は鎮西大将軍(ちんぜいだいしょうぐん)に昇進し、涼州刺史(りょうしゅうしし)を兼ねる。

247年、姜維は衛将軍(えいしょうぐん)に昇進し、大将軍の費禕(ひい)とともに録尚書事(ろくしょうしょじ)となった。

この年、汶山郡(ぶんざんぐん)の平康県(へいこうけん)で蛮族の反乱が起き、姜維が軍勢をひきいて平定した。

また、隴西・南安(なんあん)・金城(きんじょう)の諸郡へ進攻し、魏の郭淮や夏侯霸(かこうは)らと洮水(とうすい)の西で戦う。

さらに、涼州の蛮王(ばんおう)の白虎文(はくこぶん)や治無戴(ちぶたい)らが集落を挙げて降伏してきたため、姜維は部族民を連れ帰り、成都近くの繁県(はんけん)に落ち着かせた。

249年、姜維は節(せつ。権限を示すしるし)を貸し与えられ、再び魏の西平(せいへい)へ出陣したが、勝利を得られずに帰国。

『三国志』(蜀書・後主伝〈こうしゅでん〉)では、姜維の西平への出兵は翌250年のこととある。

253年春、費禕が死去すると、その年の夏、姜維は数万の軍勢をひきい、武都(ぶと)から石営(せきえい)に出たうえ、董亭(とうてい)を経て南安を包囲。

しかし、魏の雍州刺史(ようしゅうしし)の陳泰(ちんたい)が洛門(らくもん)に到着すると、蜀軍は兵糧が尽きて撤退した。

翌254年、姜維は督中外軍事(とくちゅうがいぐんじ。督中外諸軍事?)の官位を加えられる。隴西に出陣したところ、魏の狄道県長(てきどうけんちょう)の李簡(りかん)が城を挙げて降伏。

姜維は軍勢を進めて襄武(じょうぶ)を包囲し、魏の徐質(じょしつ)を斬る。勝ちに乗じて多数の敵兵を降しつつ、河関(かかん)・狄道・臨洮(りんとう)の3県から住民を連れ帰る。

翌255年、姜維は車騎将軍(しゃきしょうぐん)の夏侯霸とともに狄道へ進攻。洮水の西で魏の雍州刺史の王経(おうけい)を大破する。

夏侯霸は249年に魏から蜀へ降った。

王経を追撃して狄道城を包囲するも、魏の征西将軍の陳泰が救援に駆けつけたため、姜維は引き揚げて鍾題(しょうだい)に留まる。

翌256年、姜維は遠征先で大将軍に昇進。

鎮西大将軍の胡済(こせい)と上邽で落ち合う手はずを整えたものの、彼が約束通りに現れなかったため、姜維は段谷(だんこく)で魏の鄧艾(とうがい)に大敗してしまう。

姜維は敗戦の責任を認めて謝罪したうえ、自ら降格を願い出、後将軍(こうしょうぐん)・行大将軍事(こうだいしょうぐんじ)となった。

翌257年、魏の征東大将軍(せいとうだいしょうぐん)の諸葛誕(しょかつたん)が淮南(わいなん)で反乱を起こす。このため魏は関中(かんちゅう)の兵を割き、東へ向かわせた。

姜維はこの機に秦川(しんせん)へ向かおうと考え、数万の軍勢をひきいて駱谷(らくこく)へ出ると、速やかに沈嶺(しんれい)まで到達する。

魏の大将軍の司馬望(しばぼう)と鄧艾が長城(ちょうじょう)に防御陣を布(し)くと、姜維は進んで芒水(ぼうすい)に駐留し、山に拠って軍営を築く。魏軍は渭水(いすい)沿いの守りを固め、たびたび姜維が戦いを挑んでも応じなかった。

翌258年、諸葛誕の敗北が伝わると、姜維は成都へ引き揚げて大将軍に復した。

262年、姜維は軍勢をひきいて侯和(こうか)に出たが、魏の鄧艾に撃破され、引き揚げて沓中(とうちゅう)に駐屯する。

翌263年、姜維は劉禅(りゅうぜん)に上表し、魏の鍾会(しょうかい)が、関中で出撃準備を整えつつあると伝えて注意を促す。

ところが、宦官(かんがん)の黄皓(こうこう)は鬼神や巫女(みこ)の言葉を信じ、敵は来ないと考え、劉禅に働きかけて姜維の進言を採り上げさせない。しかも蜀の群臣は、このことを何も知らされなかった。

その後、鍾会が駱谷に向かい、鄧艾が沓中に侵入する段階になり、ようやく右車騎将軍(ゆうしゃきしょうぐん)の廖化(りょうか)が沓中へ援軍として差し向けられる。

これに加えて、左車騎将軍の張翼(ちょうよく)や輔国大将軍(ほこくだいしょうぐん)の董厥(とうけつ)らも陽安関(ようあんかん)へ救援に向かった。

姜維は陰平(いんぺい)まで来たとき、魏の諸葛緒(しょかつしょ)が建威(けんい)に向かったことを聞き、留まって待ち受ける。ひと月余り後、姜維は鄧艾に敗れて陰平へ退く。

張翼と董厥が漢寿(かんじゅ)まで来たところで、姜維と廖化は陰平を捨て、皆で剣閣(けんかく)に拠り、鍾会をよく防いだ。

だが、鄧艾が陰平から景谷道(けいこくどう)を通り、剣閣の脇から侵入。緜竹(めんちく)で諸葛瞻(しょかつせん)を撃破すると、劉禅の降伏を受け入れて成都を占領した。

初め諸葛瞻の敗報が伝わると、劉禅は成都を固守しようとしているとか、南の建寧(けんねい)へ入ろうとしているといった、様々な情報が飛び交う。

そこで姜維は軍勢を退き、広漢(こうかん)や郪(し)の街道を通りながら真偽を確かめようとする。

しかし、そのうちに劉禅の詔(みことのり)を受けたため、武器を捨てて鎧(よろい)も脱ぎ、涪(ふう)にいる鍾会のところへ出頭。ここで姜維は厚遇を受けた。

翌264年、鍾会に陥れられた鄧艾が捕らえられ、囚人護送車で送還されると、姜維は鍾会とともに成都へ入る。

成都入城後に鍾会が謀反を起こすと、魏の将兵は従おうとせず、かえって鍾会や姜維らを殺害した。姜維の妻子も処刑されたという。

管理人「かぶらがわ」より

姜維がらみの戦いは数多くあるため、本伝の記事を中心にまとめてみましたが、すべての詳細まで拾うことはできませんでした。

姜維については『三国志演義』や吉川『三国志』のイメージが強烈ですけど、史実でポイントとなるのは以下の2点だと思います。

まず、姜維が諸葛亮に投ずるに至った理由は特別なものではなく、実際のところ「たまたまだった」こと。

そして、諸葛亮が自身の後継者にと考えていたのは蔣琬や費禕であり、姜維ではなかったこと。

蜀へ来てからの姜維は、厚遇に応えて持ち味を十分に発揮しましたが――。彼の活躍を見る諸葛亮の目も、これまた冷静かつ確かなものでした。

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