顧雍(こよう) ※あざなは元歎(げんたん)、呉(ご)の醴陵粛侯(れいりょうしゅくこう)

【姓名】 顧雍(こよう) 【あざな】 元歎(げんたん)

【原籍】 呉郡(ごぐん)呉県(ごけん)

【生没】 168~243年(76歳)

【吉川】 第147話で初登場。
【演義】 第029回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・顧雍伝』あり。

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謙虚な態度を貫き、19年の長きにわたり大任を全う、醴陵粛侯(れいりょうしゅくこう)

父母ともに不詳。顧徽(こき)は弟。妻は陸氏(りくし)か? 顧邵(こしょう)・顧裕(こゆう。一名を顧穆〈こぼく〉とも)・顧済(こせい)という息子がおり、跡を継いだのは顧済。

かつて蔡邕(さいよう)は朔方郡(さくほうぐん)から戻った後、宦官(かんがん)の恨みを避けるため呉に来たことがあり、このとき顧雍は彼に就いて学び、琴なども伝授された。

顧雍は州や郡の推挙を受け、187年に20歳で合肥県長(ごうひけんちょう)となったのを手始めに、婁(ろう)・曲阿(きょくあ)・上虞(じょうぐ)でも政務を執ったが、それぞれの任地で治績を上げる。

200年、孫権(そんけん)が会稽太守(かいけいたいしゅ)を兼ねると、顧雍は郡丞(ぐんじょう)に任ぜられて太守の職務を代行した。彼が郡内の賊を討伐して平穏を取り戻すと、官民も心服するようになった。

数年後、顧雍は召し還されて左司馬(さしば)となる。

221年、孫権が魏(ぎ)の曹丕(そうひ)から呉王に封ぜられると、顧雍は昇進を重ねて大理(だいり)や奉常(ほうじょう)を務め、尚書令(しょうしょれい)を兼ねたうえ、陽遂郷侯(ようすいきょうこう)に封ぜられた。

ところが顧雍は封爵の件を話さなかったので、家人はこのことを知らず、後で人から聞いて驚いたという。

225年、顧雍は呉県に住む母を都の武昌(ぶしょう)へ迎えたが、このとき孫権が屋敷まで出向いて祝意を伝え、前庭で親しく対面した。その場に公卿(こうけい)らも集い、王太子の孫登(そんとう)も駆けつけて祝う。

この年、顧雍は太常(たいじょう)に改任され、醴陵侯に爵位が進む。さらに孫邵(そんしょう)の死去に伴い、丞相(じょうしょう)・平尚書事(へいしょうしょじ)に就任した。

顧雍の人材登用は能力主義を徹底したもので、個人的な感情に左右されない。時には民からも意見を聴き、良い政策があれば密かに孫権に伝えた。

献策が採用されれば孫権の発案とし、採用されなければ人に話すことはない。こうした態度を貫いたことにより、孫権から重んぜられたという。

その一方、顧雍は朝廷で意見を述べる際、口調や表情こそ穏やかながら、己の正しいと思うところを主張して譲らなかった。

後に呂壱(りょいつ)と秦博(しんはく)が中書(ちゅうしょ)となり、諸官庁や州郡の文書を検査する任にあたる。

彼らには職権を乱用した勝手な振る舞いが目立ち、やがて罪のない重臣を陥れるまでになった。そのため顧雍らもみな孫権の譴責(けんせき)を受けてしまう。

238年、悪事が露見した呂壱が投獄されると、顧雍は牢獄(ろうごく)に出向いて取り調べにあたる。

そして呂壱の弁明を聴いたが、同席した尚書郎(しょうしょろう)の懐叙(かいじょ)が呂壱を面罵すると、その態度をとがめた。

243年、顧雍は丞相在任19年にして死去。このとき66歳だった。葬儀に際し、孫権も素服(白い着物)を着けて親しく弔問したという。

長男の顧邵は早くに亡くなっており、次男の顧裕には重い病気があったので、末子の顧済が跡を継いだ。

その後、顧済に息子がいなかったため侯家は絶えたが、258年に孫亮(そんりょう)の詔(みことのり)が下り、兄の顧裕が改めて醴陵侯に封ぜられた。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、顧雍は酒を飲まないうえに寡黙でしたが、その行いは時宜を得たものだったといいます。

いつも孫権は賛嘆し、こう言っていました。

「ほとんど顧君(顧雍)は発言しないが、いざ発言したときは必ず的を射ている」

酒席においても、みな酒を飲んで失態を演ずれば、顧雍が見ているに違いないと感じ、あえて度を過ごすことはなかったのだとか。

そのため孫権は、冗談まじりにこうも言います。

「顧公(顧雍)が同座していると、みな楽しめないなぁ……」

顧雍が畏敬された様子はこのようなものだったのだと。

普段はもの静かだが、言うべきときには言うべきことを主張する。まことに名門の当主にふさわしい人格者でした。

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