【姓名】 趙咨(ちょうし) 【あざな】 徳度(とくたく)
【原籍】 南陽郡(なんようぐん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 第250話で初登場。
【演義】 第082回で初登場。
【正史】 登場人物。
堂々たる使者ぶりで主君の面目を保つ
父母ともに不詳。
趙咨は博聞多識でその名を知られ、人との応対も巧みだった。
221年、孫権(そんけん)が魏(ぎ)の曹丕(そうひ)から呉王(ごおう)に封ぜられると、都尉(とい)の趙咨は答礼の使者として魏へ遣わされた。
このとき曹丕に孫権の人となりを尋ねられた趙咨は、わが主は聡明にして、仁智と雄略とを兼ね備えたお方だと答える。
いくらか面食らった曹丕が、もう少し具体的に説明するよう求めると、趙咨はそれぞれ例を挙げて大いに語った。
魯粛(ろしゅく)を民間から起用されたことは、その「聡」である。呂蒙(りょもう)を兵士から抜てきされたことは、その「明」である。
(荊州〈けいしゅう〉で関羽〈かんう〉を討ち破った際、先に)捕らえられていた于禁(うきん)を殺さなかったことは、その「仁」である。血を流さずに荊州を手に入れられたことは、その「智」である。
3州(揚州〈ようしゅう〉・荊州・交州〈こうしゅう〉)に拠りつつ虎視眈々(こしたんたん)と天下をうかがっておられることは、その「雄」である。身を屈して陛下(曹丕)に臣事されていることは、その「略」であると。
その後も趙咨はたびたび魏への使者を務め、かの地の人々から高い評価を受ける。孫権は話を聞くと喜び、趙咨を騎都尉(きとい)に任じた。
趙咨は、魏が呉と結んだ盟約を長く守る気がないことを察し、孫権に独自の年号を建てるよう勧めた。
翌222年、孫権は趙咨の進言を容れ、「黄武(こうぶ)」の年号を建てて魏から独立する意思を示した。
さらに229年、孫権は武昌(ぶしょう)の南郊で帝位に即き、「黄武」を「黄龍(こうりょう)」と改元した。
管理人「かぶらがわ」より
上で挙げた記事は『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)とその裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く韋昭(いしょう。韋曜〈いよう〉)の『呉書』によるものです。
なお韋昭(韋曜)の『呉書』には、孫権が魏の曹丕から呉王に封ぜられた後、趙咨を中大夫(ちゅうたいふ)に抜てきして魏へ遣わしたとあります。
趙咨を引見した曹丕は彼の人柄を気に入りましたが、こう言ってからかいます。
「呉王の学識はどの程度のものだ?」
趙咨が応えます。
「呉王は長江(ちょうこう)に1万隻の戦艦を浮かべられ、配下の武装兵は100万人」
「よく賢者を用いられ、大いなる経略を胸に抱き、時間を見つけては広く経書や注釈書に目を通されますし、史書などもご覧になります」
「ですが書生のごとく、細かな字句の異同などを問題にされることはございません」
続けて曹丕が尋ねます。
「朕は呉を討てるだろうか?」
趙咨が応えます。
「大国(魏)には征伐のための軍勢がありましょうが、小国(呉)にも防御のための備えがございます」
さらに曹丕が尋ねます。
「呉は魏を恐れておるか?」
趙咨が応えます。
「呉には100万の武装兵があり、長江と漢水(かんすい)を濠(ほり)としておりますのに、なぜ魏を恐れる必要がありましょう」
最後に曹丕はこう言いました。
「呉には、あなたのような者がどれほどいるのか?」
趙咨が応えます。
「聡明で特に優れた見識を持つ者が80~90人。私ぐらいの者でしたら、車に載せて一斗升で量るほどおりますから、とても数えきれません」
また、陸機(りくき)が著した「弁亡論(べんぼうろん)」には、呉の臣下で使者の任を立派に務めた人物として、趙咨と沈珩(しんこう)の名が挙げられています。
使者の受け答えが国の存亡に関わることもありますので、陸機の趙咨に対する評価もうなずけますね。
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