父の曹嵩(そうすう)が陶謙(とうけん)の部将によって殺害されたため、徐州へ大軍を繰り出す曹操(そうそう)。
陶謙は各地の有力者に援軍の派遣を要請するが、これに応じて駆けつけたのは、公孫瓚(こうそんさん)から趙雲(ちょううん)を借り受けた、劉備ひきいる2千の軍勢だけだった。
第11話の展開とポイント
(01)徐州(じょしゅう)
陶謙(とうけん)が兵馬を集めて守りを固め、曹操軍(そうそうぐん)の襲来に備えるよう命ずる。
その一方、陶謙は息子に手紙を託し、冀州(きしゅう)の袁紹(えんしょう)、南陽(なんよう)の袁術(えんじゅつ)、平原(へいげん)の公孫瓚(こうそんさん)をそれぞれ訪ね、援軍の派遣を頼むよう命ずる。
さらに陶謙はその見返りとして、曹操軍を退けてくれたら毎年20万石(ごく)の兵糧を贈るという条件を提示させた。
(02)兗州(えんしゅう)
荀彧(じゅんいく)が曹操に、父の曹嵩(そうすう)の死に対する弔意を表す一方、徐州を攻める口実ができたことで祝いを述べる。
★ここで荀彧が曹操に「主君が挙兵して2年」と言っていた。いくらか計算が合わない感じがする。
曹操が荀彧の進言を容れ、父を殺した陶謙の罪を朝廷に上奏し、やむなく兵を動かす旨を伝える。また、このことを広く諸侯にも知らせる。
曹操自ら5万の軍勢をひきい、徐州へ向けて出陣する。
(03)西暦193年 徐州の戦い
曹操が徐州の城外に到着。陶謙は曹操に自ら張闓(ちょうがい)を討伐することを伝え謝罪。加えて毎年20万石の兵糧を贈るとも述べる。
★ここで陶謙が曹操に、「私は貴殿の父上よりひとつ年上だ」と言っていた。正史『三国志』によると陶謙は132年生まれのはずだが、曹嵩のほうはよくわからなかった。ドラマのオリジナル設定かも?
曹操は陶謙の申し出を受け入れず、2日だけ待つことを伝えていったん引き揚げる。
(04)冀州
陶謙の息子が袁紹を訪ね、陶謙の書簡を渡す。しかし、袁紹は先に曹操からの書簡が届いていたこともあり、徐州へ援軍を送らないことを決める。
(05)平原 公孫瓚の軍営
陶謙の息子が公孫瓚を訪ね、陶謙の書簡を手渡し援軍の派遣を求める。この場には趙雲(ちょううん)も同席していた。そこへ平原令(へいげんれい。平原県令)の劉備(りゅうび)がやってくる。
★ここで公孫瓚は陶謙の息子にあざなで呼びかけていたようだ。「キョウキ」か「キョウヒ」と聞こえたが? ちなみに陶謙のあざなは恭祖(きょうそ)という。いずれにせよ陶謙の息子については字幕での紹介がなく、よくわからなかった。
★また、ここで陶謙の息子が公孫瓚に、袁術にも同様の救援要請をしたところ、ブネイ(?)とシスイ(?)の割譲を要求された、とも話していた。
劉備が公孫瓚に、2千の手勢をひきいて徐州へ行くことを伝える 公孫瓚は精兵3千を貸そうとするも、劉備は兵馬の代わりに趙雲を拝借したいと申し入れ許しを得る。
(06)徐州 曹操の軍営
曹操のもとに、袁兄弟、劉表(りゅうひょう)、公孫瓚らは陶謙に援軍を出さないようだとの報告が届く。併せて荀彧は曹操に、兗州南部に呂布(りょふ)の兵馬が1万近く現れたことも伝える。
(07)徐州
3日後、曹操は改めて投降を拒否した陶謙に対し総攻撃を開始する。ほどなく趙雲を先頭に劉備軍が到着する。
やがて曹操は形勢を見て、ゆっくりと退却するよう命ずる。
その後、陶謙は劉備らを招いて酒宴を催し謝意を述べる。この席で陶謙は劉備に徐州を譲ろうとするが、劉備は断る。
管理人「かぶらがわ」より
「劉備、徐州もらっちゃえー」だった第11話。
しかし、この人はホント運がいいと言うか、何かを持っている人ですよね。いきなり趙雲に慕われちゃったりもしますし――。
まぁ、ここまで「いかにも君子」って態度を取られると、かえって鼻につくところもありますけどね。何だか付き合いにくそうですし……。
あと前の第10話から出てきた、張闓が逃げ込んだというゴホウ山という山がよくわかりませんでした。
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