曹植(そうしょく) ※あざなは子建(しけん)、魏(ぎ)の陳思王(ちんしおう)

【姓名】 曹植(そうしょく) 【あざな】 子建(しけん)

【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)

【生没】 192~232年(41歳)

【吉川】 第122話で初登場。
【演義】 第034回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・陳思王植伝(ちんしおうしょくでん)』あり。

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魏(ぎ)の曹操(そうそう)の息子で曹丕(そうひ)の同母弟、陳思王

父は曹操、母は卞氏(べんし。武宣卞皇后〈ぶせんべんこうごう〉)。

同母兄の曹丕と曹彰(そうしょう)のほか、同母弟に曹熊(そうゆう)がいる。息子の曹志(そうし)は跡継ぎ。

曹植は、10余歳にして『詩経(しきょう)』と『論語(ろんご)』に加え、『楚辞(そじ)』や漢賦(かんふ)数十万字を朗唱でき、優れた文章も作った。

その一方で細かいことにこだわらない性格で、威儀を整えようとはせず、車馬や服装は華美なものを尊ばなかったという。

曹植は曹操から難問を投げかけられても、問いの声に応じて答えるのが常であり、特に寵愛された。

彼は生涯で6度の移封を経験している。曹丕や曹叡(そうえい)の時代には、たびたび自身を含めた魏の帝族の起用を求めたが、ついに受け入れられることはなかった。

232年に陳国(ちんこく)で病死。諡(おくりな)は思王。息子の曹志が跡を継いだ。

主な経歴

-192年(1歳)-
この年、誕生。

-211年(20歳)-
1月、平原侯(へいげんこう)に封ぜられる。封邑(ほうゆう)は5千戸。

-214年(23歳)-
この年、臨菑侯(りんしこう)に移封される。父の曹操は7月に孫権(そんけん)討伐に向かったが、このとき曹植は鄴(ぎょう)の守りを命ぜられた。

-217年(26歳)-
10月、同母兄の曹丕が魏の王太子に指名される。

この年、5千戸の加増を受け、封邑が1万戸になった。

この年ごろ、車で天子(てんし)専用の道路を通って城外に出るという無礼を働く。父の曹操はひどく腹を立て、公車令(こうしゃれい)を処刑。曹植への寵愛も日に日に衰えていった。

-219年(28歳)-
この年、曹仁(そうじん)が樊城(はんじょう)で劉備(りゅうび)配下の関羽(かんう)に包囲される。

このとき父の曹操は、曹植を南中郎将(なんちゅうろうしょう)として征虜将軍(せいりょしょうぐん)も兼務させ、曹仁の救援を命じようとしたが、彼は酔っていて命令を受けられず、沙汰やみになってしまった。

この年、側近の楊脩(ようしゅう)が処刑された。

-220年(29歳)-
1月、父の曹操が崩御(ほうぎょ)。2月には同母兄の曹丕が丞相(じょうしょう)・魏王(ぎおう)を継ぐ。

10月、同母兄の曹丕が、漢(かん)の献帝(けんてい)の禅譲を受けて帝位に即く。

この年、側近の丁儀(ていぎ)と丁廙(ていい)の兄弟が処刑された。

-221年(30歳)-
この年、監国謁者(かんこくえっしゃ)の灌均(かんきん)の上奏により、勅使に無礼な振る舞いをしたことを問罪される。

しかし、曹丕の母でもある卞太后(べんたいこう)への配慮から、処分は安郷侯(あんきょうこう)に降格されるにとどまった。

この年、鄄城侯(けんじょうこう)に移封された。この際、同母兄の曹彰は鄢陵侯(えんりょうこう)から鄢陵公に爵位が進むなど、一族の多くは侯から公に昇格したが、曹植は移封されただけだった。

-222年(31歳)-
この年、鄄城侯から鄄城王に爵位が進んだ。封邑は2,500戸。

-223年(32歳)-
この年、雍丘王(ようきゅうおう)に移封された。

6月、同母兄の曹彰が洛陽(らくよう)滞在中に病死する。

-225年(34歳)-
この年、同母兄の曹丕が東征し、帰途で雍丘に立ち寄る。この際、500戸の加増を受けた。

-226年(35歳)-
5月、同母兄の曹丕が崩御。同月、甥にあたる曹叡が帝位に即く。

-227年(36歳)-
この年、浚儀王(しゅんぎおう)に移封された。

-228年(37歳)-
この年、再び雍丘王に移封された。

この年、自身の起用を熱望する上奏文を奉ったものの、聞き入れられなかった。

-229年(38歳)-
この年、東阿王(とうあおう)に移封された。

-231年(40歳)-
この年、再び上奏文を奉り、親族と慶弔のやり取りや四季の挨拶を交わす許可を求め、その気持ちを述べる。

曹叡は詔(みことのり)をもって応え、「本来、諸国の通交を禁ずる詔など存在せず、担当官吏がとがめを恐れて、そのような状況を招いたにすぎない」とし、上奏の内容を受け入れた。

またこの年、頻繁な若者の徴発について再考を促す上奏文を奉る。これも曹叡に容れられ、徴発された若者はみな帰された。

-232年(41歳)-
1月、詔により洛陽に参内する。

2月、陳王に移封される。封邑は陳郡の4県3,500戸。

11月、陳国で病死。

管理人「かぶらがわ」より

本伝や裴松之注(はいしょうしちゅう)に引かれている上奏文からも、曹植の学識の高さがうかがえます。

文中に引用されている経典(けいてん)の内容や故事は、それぞれが深い意味を含んでおり、礼節を保ちつつも言いたいことはしっかり伝える、という姿勢を感じました。

『三国志演義』(第79回)で採り上げられている「七歩の詩」など、劉義慶(りゅうぎけい)の『世説新語(せせつしんご)』を出典とする詩については、陳寿(ちんじゅ)や裴松之が触れていないので、ここではコメントしません。

ですが真偽はともかくとして、曹植が曹丕の前で詩を作る場面には心を打たれるものがありました。

この場面に限らず、呉(ご)に使者として来ていた諸葛亮(しょかつりょう)を、兄の諸葛瑾(しょかつきん)が説得しに行くくだり(第44回)とか、死を前にした劉備(りゅうび)が諸葛亮に後事を託すくだり(第85回)とか――。

読み手によって心に響くところは違うのでしょうが、私はこうした場面の印象が強いです。

しかし、いくら警戒が必要だとしても、魏における諸王の扱いは行きすぎじゃないでしょうか?

属官は商人や才能のない人物ばかりで、支給される兵士も老残のうえ、数は多くても200人とは……。これではちょっとした盗賊団にも負けそうです。

王と呼ばれ、その住まいは宮殿と呼ばれても、確かに孫盛(そんせい)の言う通り平民のような扱いですね。さらに監国謁者といった監視役まで付きますから、曹植の暮らしにくさは平民以上だったのかもしれません。

ただその後、景初(けいしょ)年間(237~239年)の曹叡の詔により、「黄初(こうしょ)年間(220~226年)に上奏された曹植に対する罪状書や、それらに関する議論の記録を保管してある役所から集め、すべて廃棄した」とあり――。

さらに「曹植が書き残した賦・頌(しょう)・詩・銘・雑論、合わせて100余編を収録したうえ、その副本を都の内外に所蔵した」ともあります。いくらかは名誉を回復したということなのでしょう。

曹丕の後に生まれたのだから仕方ないという気もしますが、曹操が後継者にと迷うくらいの逸材だったことは間違いなく、タラレバは尽きません。

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