曹袞(そうこん) ※魏(ぎ)の中山恭王(ちゅうざんきょうおう)

【姓名】 曹袞(そうこん) 【あざな】 ?

【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)

【生没】 ?~235年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・中山恭王袞伝(ちゅうざんきょうおうこんでん)』あり。

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魏(ぎ)の曹操(そうそう)の息子で曹丕(そうひ)の異母弟、中山恭王

父は曹操、母は杜氏(とし)。同母兄には曹林(そうりん)がおり、曹氏(そうし。金郷公主〈きんきょうこうしゅ〉)は同母姉妹。息子の曹孚(そうふ)は跡継ぎ。

曹袞は216年に平郷侯(へいきょうこう)に封ぜられ、翌217年に東郷侯(とうきょうこう)、同年に賛侯(さんこう)に移封された。

221年には賛公に爵位が進み、翌222年に北海王(ほっかいおう)に移封された。

この年、鄴(ぎょう)の西の漳水(しょうすい)に黄龍が現れた。曹袞は上書して曹丕の徳をたたえ、詔(みことのり)により黄金10斤を下賜された。

翌223年に賛王、226年には濮陽王(ぼくようおう)に移封された。

228年、曹袞は封国の濮陽に赴任した。231年冬に入朝し、翌232年には中山王(ちゅうざんおう)に移封された。

翌233年、担当官吏が曹叡(そうえい)に上奏し、(曹袞が)231年に入朝した際、禁令に違反した罪を問われる。

曹叡は曹袞を擁護したが、結局は封邑(ほうゆう)から2県750戸が削られることになった。

曹袞は属官を戒め、ますます謹厳に努めた。そのため、翌234年には先に削られた県が返された。

翌235年秋、曹袞は病にかかり、同年中に薨去(こうきょ)した。

息子の曹孚が跡を継ぎ、景初(けいしょ)年間(237~239年)・正元(せいげん)年間(254~256年)・景元(けいげん)年間(260~264年)にたびたび加増され、3,400戸となった。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると「曹袞は若いころから学問が好きで、10余歳にしてうまく文章を作った」ということです。

「文学(ぶんがく。官名)や近侍の者は、彼が熱心に書物を読みすぎることを心配し、たびたびやめるよう忠告した。しかし曹袞は生まれながらの読書好きで、やめることができなかった」ともあります。

また、このような話も――。

お目付け役の属官たちが、曹袞の美点を称揚する上奏を行ったことを知ると、曹袞はひどく驚いたうえに恐れ、属官をとがめて言った。

「わが身を修めて羽目を外さないようにするのは、人として当然のことだ。それをきみたちは上聞に達した。これでは私の負担が増すだけだ」

そして、228年に封国の濮陽に赴任した後は倹約を尊び、妃妾(ひしょう)らに糸を紡(つむ)がせて機を織らせ、召使いのやるべき仕事も習わせた。こういう具合に、とても慎み深い人だったということです。

曹袞が病に倒れると、曹叡は詔を下して太医(たいい。帝室の侍医)を遣わしたり、ごちそうを下賜したりしています。

太妃(たいひ。生母である杜氏)や(同母兄の)沛王(はいおう)の曹林が見舞いに行くことも許しており、厚遇ぶりがうかがえますね。

曹袞のほうも最後まで信念を曲げず、葬儀を質素に執り行うよう命じ、跡継ぎとなる息子に礼節を説いて逝きました。

文才もあった曹袞は2万余字の著述を残しており、その才能は曹植(そうしょく)に及ばなかったものの、好んで張り合ったのだとも。

なお、本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王沈(おうしん)の『魏書』によると、231年に曹袞が違反した禁令というのは、「首都(洛陽〈らくよう〉)の人士と行き来したこと」だとありました。

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