【姓名】 呉氏(ごし) ※名とあざなは不詳
【原籍】 陳留郡(ちんりゅうぐん)
【生没】 ?~245年(?歳)
【吉川】 第239話で初登場。
【演義】 第077回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・穆皇后伝(ぼくこうごうでん)』あり。
蜀(しょく)の劉備(りゅうび)の正室、穆皇后
父母ともに不詳。呉壱(ごいつ。呉懿〈ごい〉)は兄。初めは劉瑁(りゅうぼう)に嫁いだ。
呉氏は呉壱ともども、幼いころに孤児となる。父が旧知だったことから一家を挙げて劉焉(りゅうえん)に従い、蜀へ入った。
その後、呉氏は劉焉の息子の劉瑁に嫁いだものの、やがて劉瑁は亡くなってしまう。
214年に劉備が益州(えきしゅう)を平定すると、正室の孫氏(そんし。孫権〈そんけん〉の妹)は孫権のもとへ帰った。そこで群臣は呉氏を娶(めと)るよう勧め、劉備もこの意見を容れた。
219年、劉備が漢中王(かんちゅうおう)を称したことに伴い、呉氏も漢中王后(かんちゅうおうこう)に立てられた。
221年4月に劉備が帝位に即くと、翌5月には皇后に立てられた。
223年4月に劉備が崩御(ほうぎょ)。翌5月に劉禅(りゅうぜん)が帝位を継ぐと、呉氏は皇太后と尊称され、長楽宮(ちょうらくきゅう)と呼ばれることになった。
245年8月に崩御し、恵陵(けいりょう。劉備の陵)に合葬された。
管理人「かぶらがわ」より
本伝によると「呉氏は高貴な身分になる人相をしていた」そうです。「かねて野心を抱いていた劉焉は、この話を聞くと、自ら息子の劉瑁を連れて呉氏のもとを訪ね、劉瑁のために娶った」のだと。
同じく本伝によると、劉備が、同族の劉瑁の妻だった呉氏を娶ることに懸念を示したところ、法正(ほうせい)が、春秋(しゅんじゅう)時代の晋(しん)の文公(ぶんこう)と子圉(しぎょ)の例を引き合いに出して説得しています。
この部分、訳者注(井波律子〈いなみ・りつこ〉氏)によれば、「晋の恵公(けいこう)の太子だった子圉が人質として秦(しん)にいたとき、秦の公女を娶った。後に子圉は晋に逃げ帰り、懐公(かいこう)として立った。放浪の身となっていた重耳(ちょうじ。後の晋の文公)が秦にやってくると、秦は先に子圉に嫁がせた公女を、改めて重耳に嫁がせた」のだという。そして「恵公と文公は兄弟にあたる」ともありました。
結局、劉備は呉氏を娶ったわけですが、裴松之注(はいしょうしちゅう)の中で、習鑿歯(しゅうさくし)が判断の誤りだと指摘しています。
さらに「文公は秦の援助を受けるため、やむを得ず礼教に反して公女を娶ったが、劉備の状況は文公のように逼迫(ひっぱく)したものではなく、それを例として引き合いに出したことも誤りだ」とも。
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