164年(漢の延熹7年)の主な出来事

-164年- 甲辰(こうしん)
【漢】 延熹(えんき)7年 ※桓帝(かんてい。劉志〈りゅうし〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】
庚寅(こういん)の日(18日)
沛王(はいおう)の劉栄(りゅうえい)が薨去(こうきょ)する。
『後漢書(ごかんじょ)』(桓帝紀〈かんていぎ〉)

【02月】
黄瓊(こうけい)が死去する(86年~)。彼の葬儀の会葬者は6、7千人にも達したという。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【03月】
癸亥(きがい)の日(4月23日?)
鄠県(こけん)に隕石(いんせき)が落ちる。
『後漢書』(桓帝紀)

【04月】
丙寅(へいいん)の日(26日)
梁王(りょうおう)の劉成(りゅうせい)が薨去する。
『後漢書』(桓帝紀)

【05月】
己丑(きちゅう)の日(19日)
洛陽(らくよう)で雹(ひょう)が降る。
『後漢書』(桓帝紀)

【07月】
辛卯(しんぼう)の日(22日)
趙王(ちょうおう)の劉乾(りゅうけん)が薨去する。
『後漢書』(桓帝紀)

【07月】
野王県(やおうけん)にある山の頂上で、死んだ龍が見つかる。
『後漢書』(桓帝紀)

【07月】
荊州刺史(けいしゅうしし)の度尚(たくしょう)が、零陵(れいりょう)・桂陽(けいよう)の両郡の盗賊や蛮夷(ばんい)の討伐にあたり、これを大破して平定する。
『後漢書』(桓帝紀)

【10月】
壬寅(じんいん)の日(5日)
桓帝が南方に巡狩(じゅんしゅ)する。
『後漢書』(桓帝紀)

【10月】
庚申(こうしん)の日(23日)
桓帝が章陵郡(しょうりょうぐん)に行幸し、光武帝(こうぶてい)の旧宅や章陵の先祖らの宗廟(そうびょう)を祭る。また太守(たいしゅ)や県令(けんれい)以下に、それぞれ差をつけて下賜を行う。
『後漢書』(桓帝紀)

【11月】
戊辰(ぼしん)の日(1日)
桓帝が雲夢沢(うんぼうたく)に行幸し、漢水(かんすい)を臨む。そこから引き返して新野県(しんやけん)にも行幸。光武帝の姉である湖陽公主(こようこうしゅ)と新野公主、光武帝の次兄である魯哀王(ろあいおう)、光武帝の祖父である寿張敬侯(じゅちょうけいこう)の廟を祭った。
『後漢書』(桓帝紀)

『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡本秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ・まさのり〉編 汲古書院)の補注によると、「湖陽公主は劉黄(りゅうこう)といい、光武帝の長姉である。新野公主は劉元(りゅうげん)といい、光武帝の次姉である。魯哀王は劉仲(りゅうちゅう)といい、光武帝の次兄である。寿張敬侯は樊重(はんちょう)といい、光武帝の母である樊嫺都(はんかんと)の父(つまり光武帝の母方の祖父)である」という。

『全譯後漢書 第2冊』の補注や李賢注(りけんちゅう)でも触れられているが、正確には「湖陽長公主(こようちょうこうしゅ)」と「新野長公主(しんやちょうこうしゅ)」である。

【11月】
護羌校尉(ごきょうこうい)の段熲(だんけい)が当煎羌(とうせんきょう)を討ち破る。
『後漢書』(桓帝紀)

【12月】
辛丑(しんちゅう)の日(4日)
桓帝が洛陽に還幸する。
『後漢書』(桓帝紀)

【?月】
この年、桓帝が、皇女の劉堅(りゅうけん)を潁陰長公主(えいいんちょうこうしゅ)に封じた。
『後漢書』(皇后紀〈こうごうぎ〉)

特記事項

「この年(164年)に生まれたとされる人物」
虞翻(ぐはん)

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