こちらの謎は曹琬(そうえん)の生母に関するものです。
このカテゴリーでは「三国志の世界」と付き合う中で、管理人(かぶらがわ)が個人的に疑問を感じたテーマを取り上げます。
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概要
まずは曹均(そうきん)の息子である曹琬が、伯父にあたる曹昂(そうこう)の家を継いだ経緯を述べたのが、以下の「曹昂伝」の記事。
「豊愍王(ほうびんおう)昂(曹昂)字子脩(ししゅう)。弱冠挙孝廉(こうれん)。随太祖(たいそ。曹操〈そうそう〉)南征、為張繡(ちょうしゅう)所害。無子」
「黄初(こうしょ)二(221)年追封、諡曰豊悼公(ほうとうこう)。三(222)年、以樊安公(はんあんこう)均(曹均)子琬(曹琬)奉昂(曹昂)後、封中都公(ちゅうとこう)。其年徙封長子公(ちょうしこう)。五(224)年、追加昂(曹昂)号曰豊悼王(ほうとうおう)。太和(たいわ)三(229)年改昂(曹昂)諡曰愍王(びんおう)」
「嘉平(かへい)六(254)年、以琬(曹琬)襲昂(曹昂)爵為豊王(ほうおう)。正元(せいげん。254~256年)、景元(けいげん。260~264年)、累増邑、并前二千七百戸。琬(曹琬)薨、諡曰恭王(きょうおう)。子廉(れん。曹廉〈そうれん〉)嗣」
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・曹昂伝)
そして、以下は「張繡伝」の記事。
「[建安(けんあん)4(199)年、]太祖(曹操)拒袁紹(えんしょう)於官渡(かんと)、繡(張繡)従賈詡(かく)計、復以衆降。語在詡伝(賈詡伝)」
「繡(張繡)至、太祖(曹操)執其手、興歓宴、為子均(曹均)取繡女(張繡の娘)、拝揚武将軍(ようぶしょうぐん)」
『三国志』(魏書・張繡伝)
上の記事にあるように、曹均は張繡の娘(張氏)を娶(めと)ったわけですが、彼の息子である曹琬を生んだのがこの張氏なのか、それともほかの妻なのか、という点がポイントになると思います。
管理人「かぶらがわ」より
「曹昂伝」にあるように、曹昂は曹操の南征(建安2〈197〉年の張繡討伐)に付き従いました。そこで曹操がいったん降伏した張繡に一杯食わされる形で敗れ、曹昂と甥の曹安民(そうあんみん)らを亡くしました。
つまり曹昂にとって張繡は仇敵(きゅうてき)なのですが、もし曹琬の生母が張繡の娘だったのなら、彼を曹昂の跡継ぎにするかな? というところが引っかかります。
曹均の生母は張繡の娘ではないのかもしれませんね。
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