富池口(ふちこう)での敗報に接するや、呉(ご)の孫権(そんけん)は幽閉していた陸遜(りくそん)を呼び出し、大都督(だいととく)に任じて蜀軍(しょくぐん)の迎撃を命ずる。
蜀の劉備(りゅうび)は馬良(ばりょう)から陸遜の経歴を聞き、その力量を試すべく攻撃命令を下す。
第80話の展開とポイント
(01)富池口
韓当(かんとう)と周泰(しゅうたい)が黄忠軍(こうちゅうぐん)の反撃に遭い、進退窮まる。
しかし程普(ていふ)が兵をひきいて駆けつけたため、皆で包囲の突破にかかる。だが程普は矢を受けて落馬し、そのまま亡くなってしまう。
★周泰は既出だが、字幕で紹介されたのは初めてかも? また、ここで程普の字幕が「程晋」となっていた。これは誤りだろう。
関興(かんこう)が劉備に戦況を報告。富池口に入った呉軍は8万ほど。韓当と周泰は残った兵1万をひきいて逃げたが、ほかは壊滅したようだと。
また、傅士仁(ふしじん)と糜芳(びぼう)が窮地に陥り、呉の守将の馬忠(ばちゅう)を伴い投降を申し出てきたとも。
劉備は傅士仁と糜芳の処刑を命ずる。
さらに関興は、韓当と周泰の援軍に来た程普が沙摩柯(しゃまか)の矢に当たり、即死したそうだとも伝える。
★ここで関興が「5万の異民族兵をひきい、手柄を立てた沙摩柯に褒美をお与えください」とも言っており、劉備も承諾していた。
(02)黄忠の軍営
重傷を負って瀕死(ひんし)の黄忠のもとに劉備が駆けつける。黄忠は劉備から大勝利を収めたことを聞いた後、陣中で息を引き取った。
★ここで劉備が黄忠に「呉軍が失った兵は、およそ7万……」と言っていた。
★また劉備が「もはや朕は五虎大将軍(ごこだいしょうぐん)を3名も失ってしもうた。いずれも孫権との戦で散ってしまった……」とも言っていた。この時点で亡くなった五虎大将軍は関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)・黄忠の3人。生き残っているのは趙雲(ちょううん)と馬超(ばちょう)のふたり。
劉備は全軍に夷陵(いりょう)の攻略を厳命する。
(03)柴桑(さいそう)
13日間にわたって幽閉されていた陸遜が孫権に呼ばれる。孫権は富池口での大敗を伝えたうえ、大都督として劉備の迎撃にあたるよう命ずる。
★ここで孫権が陸遜に、富池口で10万いた精鋭の大半を失ったことや、程普・甘寧(かんねい)・潘璋(はんしょう)・馬忠が死んだことも伝えていた。
★またここで孫権が陸遜に、闞沢(かんたく)が一族の命を懸けても、陸遜に大任を担ってほしいと言ったことにも触れていた。これは『三国志演義』(第83回)に登場するエピソード。
(04)陸遜の軍営
孫権が韓当と周泰に大敗の責任を問い、死罪を申し渡す。しかし諸葛瑾(しょかつきん)が助命を乞い、陸遜も武勲をもって罪を償わせるよう進言したため孫権も同意。
★陸遜の軍営の場所がはっきりしなかった。この時点では夏口(かこう)か? 以下、この第80話では軍営の場所がはっきりしないケースが目立つ。
(05)視察中の劉備
劉備が関興の案内で、この10日間のうちに築かれたという呉の軍営の様子をうかがう。
★ここでも劉備が視察していた場所がはっきりしない。
★ここで敵将として陸遜の名が出たところで、馬良が劉備に陸遜に関する情報を伝えていた。
陸遜は皖城(かんじょう)の校尉(こうい)で、あざなを伯言(はくげん)という。生まれは呉郡で陸紆(りくう)の孫、九江郡都尉(きゅうこうぐんとい)の陸駿(りくしゅん)の子にして、前の呉侯である孫策(そんさく)の婿だと。
また、3年前は呂蒙(りょもう)の副都督(ふくととく)として武器や兵糧を管理していたが、ふた月足らずで孫権に罷免された。その後はいかなる軍職にも再任されず、読書ざんまいだったと。
さらに馬良は劉備から陸遜の年齢を尋ねられ、27歳だと答えていた。陸遜が孫策の娘を娶(めと)ったことは、『三国志演義』はもちろん正史『三国志』にも見える。それにしては、皆からの陸遜への敬意がイマイチな感じ。若さだけが理由ではないのかも?
劉備は陸遜の才を試すとして、関興に、陸遜が10日間で築いたという軍営を5日間のうちに攻略するよう命ずる。そして馬良には、呉の軍営を陥したあと全軍を挙げて猇亭(おうてい)まで進み、その地に駐屯するよう命ずる。
(06)韓当の軍営
韓当のもとに、蜀軍による5度目の攻撃が始まったとの知らせが届く。何度退けても屍(しかばね)を踏み越え、進軍してくるとも。
続いて韓当のもとに、関興らに南の壁を破られ、ソウ将軍(?)が戦死したとの知らせも届く。さらに蜀軍が放った火矢のため、軍営の後方に火の手が上がったとの知らせも届いた。
周泰は韓当に、出撃して蜀軍に不意討ちをかけたいと進言。しかし韓当は、陸遜から戦うなとの命令を受けていたため周泰を制止する。
そこへ韓当のもとに、陸遜から軍営を捨てて30里後退せよとの命令が届く。韓当は陸遜が20日間、軍営を守るよう命じたことを挙げ、10日も経たないうちの後退命令を非難する。それでも韓当と周泰は後退の命令に従った。
(07)劉備の軍営
関興が劉備に、10日間のうちに25の呉の軍営を討ち破り、呉軍に2千余りの死者が出たことを報告。韓当と周泰が西へ逃げたことも伝える。劉備は兵を数日休ませるよう命じ、そののち再び全軍で進攻すると告げた。
ここで馬良が劉備に偵察兵からの情報として、30里先の山の斜面に呉の陣屋が20ほど見えると伝える。劉備は関興らとともに様子を見に行く。
(08)視察中の劉備
劉備が関興に3万の精鋭を預け、30里先に見える呉の軍営を迂回(うかい)して、さらに30里先にある軍営を攻め取るよう命ずる。
(09)陸遜の軍営
張苞(ちょうほう)が夷陵城を攻めているが、陸遜は援軍を送らず、孫桓(そんかん)に死守を命じたことが伝わる。諸将の間には連敗を喫した陸遜への不満が広がる。
陸遜が遅れて入ってきたフシュン(?)を棒叩き40回の刑に処す。なおもフシュンが暴言を吐いたため、棒叩きの回数を80回に増やす。
★ここで陸遜が韓当と周泰に、「フシュンは、我らが主君の奥方さまの弟……」と言っていた。
陸遜が韓当と周泰に、30里先に築いた20の陣屋からなる第三の軍営を5日間だけ守るよう命ずる。今回も出撃しないよう言いつけ、5日間を過ぎてから蜀軍が攻撃してきたら後退するよう伝える。第四の軍営を50里先に準備するとも。
陸遜は諸将の求めに応じ、最後の防御線として猇亭山を考えていることを明かす。また、蜀軍の猇亭山への到着を2か月後と想定し、いまやるべきことは引き延ばしを図ることだけだとも話した。
(10)成都(せいと)
馬謖(ばしょく)が諸葛亮(しょかつりょう)に劉備から預かった書簡を手渡し、蜀軍が各地で勝利を重ね、順調に進軍していることを報告。
諸葛亮は劉備が年内に呉を平定すると言い、遷都の話まで持ち出したと聞き、理由なき不安に襲われる。
諸葛亮は劉備への返書をしたため、馬謖に届けるよう命ずる。
(11)建業(けんぎょう)
陸遜が第三の軍営も失ったことが伝わると、彼の更迭を求める声が上がる。しかし孫権は、陸遜の解任を完全否定した。
★ここで張昭(ちょうしょう)が孫権に、「主君自ら夏口の本陣へ行き、指揮をお執りくださいますよう……」と言っていた。ここから、この第80話(04)の軍営が夏口にあったらしいことがわかる。
(12)陸遜の軍営
陸遜が諸将を集め、夷陵山脈に50の陣屋からなる強固な軍営を築いたことを伝える。それが最後の防衛線だとも。
そして陸遜は軍営と定めをともにする覚悟を促し、一同で血の入った酒を飲み、劉備打倒を誓い合う。
(13)劉備の軍営
張苞が劉備に、サエイ(左衛?)の1万の兵で終日、ホウコサイ(ホウコウサイ?)を攻めたものの、成果が得られなかったと報告。
★「サエイ」もイマイチわからなかったが、攻めたという砦らしき名前もわからず。次の第81話(04)で「跑虎砦(ほうこさい)」が出てくるが、同じものだろうか?
続いて関興が劉備に、ウエイ(右衛?)の兵はラクガンヘイ(?)を攻めたものの、呉軍の激しい抵抗に遭い、甚大な被害が出たと報告。
★ここも「ラクガンヘイ」というのがわからなかった。セリフの聞き取りが間違っている可能性もあるため自信はない。
劉備は諸将に決死隊の組織を命じ、それぞれ諸将自身で統率するよう告げる。翌日、続けて攻撃をかけ、3日以内にすべて攻略するとも。
ここで馬良が1日だけ兵を休ませるよう進言。だが劉備は聞き入れず、各軍営を猇亭の前線へ移せと言い、翌日から交代で攻めるよう命ずる。
管理人「かぶらがわ」より
蜀の黄忠と呉の程普。数々の戦功を立てたふたりの老将の死。
富池口での大敗により陸遜を大都督に起用する孫権。呉の歴代の大都督は筋が通っている感じがします。周瑜(しゅうゆ)、魯粛(ろしゅく)、呂蒙、そして陸遜と。
当然ながら、このドラマは『三国志演義』とも展開が異なるので、観ていて記憶が混乱するところはありますね。
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