吉川『三国志』の考察 第048話「緑林の宮(りょくりんのみや)」

長安(ちょうあん)から脱出した献帝(けんてい)だったが、李傕(りかく)や郭汜(かくし)らの執拗(しつよう)な追撃に遭う。

そしていよいよ危機が迫ると、緑林(盗賊)の徒である白波帥(はくはすい)の頭目たちにまで助力を頼まねばならなくなった。

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第048話の展開とポイント

(01)華陰県(かいんけん) 行幸中の献帝

長安を出て弘農(こうのう)へ向かう献帝一行だったが、華陰県の辺りで郭汜の軍勢に追いつかれてしまう。

しかし、ここで楊奉(ようほう)が1千余騎をひきいて現れ、部下の徐晃(じょこう)とともに郭汜軍を壊滅。楊奉は余勢を駆り、献帝に付き従う李傕の掃討にかかった。

『三国志演義(1)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第13回)では、ここで郭汜配下の崔勇(さいゆう)が徐晃に斬られていた。だが、吉川『三国志』では崔勇を使っていない。

李傕と部下は戦う勇気もなく逃げ奔る。献帝は喜びのあまり御車(みくるま)を降り、楊奉と徐晃の働きをたたえた。

ここで楊奉が、徐晃は河東(かとう)楊郡(ようぐん)の生まれだと紹介していたが、正しくは河東(郡の)楊県の生まれである。

(02)華陰県 寧輯(ねいしゅう)

献帝の御車は華陰県の寧輯という部落にあった楊奉の軍営へ行き、営中で一泊。夜明けごろ、昨日ともに敗れた李傕と郭汜が軍勢を併せて逆襲してくる。彼らは近県の無頼漢や山賊の類いまで駆り集め、楊奉の軍営を取り囲んだ。

このとき幸いにも、献帝の寵妃の父である董承(とうじょう)という老将が一隊をひきいて御車を慕ってきたため、献帝は虎口を脱し先へと逃げ落ちる。

楊奉は追ってくるのが雑多な雑軍と見るや、献帝や随臣に珠玉などの財物を道に捨てるよう言い、みな彼の言葉に従う。なおも李傕と郭汜の軍勢が執拗に追いかけると、やむなく献帝は道を変え、陝西(せんせい)の北部へ逃げ隠れた。

そこで献帝は周囲の者の勧めに任せ、白波帥の一党へ詔(みことのり)を下し、李傕と郭汜の軍勢を退けようとする。

この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「(白波は)後漢末(ごかんまつ)、白波谷に拠った黄巾(こうきん)の残党を指す。後に転じて盗賊を指す語となった」という。

白波帥とは太古の山林に住み、旅人や良民の肉を食らい、血にうそぶき生きている緑林の徒。いわゆる山賊強盗を渡世とした輩(やから)だった。

白波帥の頭目である李楽(りがく)・韓暹(かんせん)・胡才(こさい)は評議を一決すると、山林の豺狼(さいろう。山犬〈ヤマイヌ〉と狼〈オオカミ〉。残酷で思いやりのない人のたとえ)1千余人を糾合して駆けつけた。

味方を得て、献帝の御車は再び弘農を目指して急ぐ。しかしすぐに李傕と郭汜の連合軍にぶつかる。

郭汜は敵兵に緑林の仲間が多く混ざっていることに気づくと、先に献帝と随臣が道に捨てた財物を集めておいた一輛(いちりょう)の車から、それらを戦場へ撒(ま)き散らす。

李楽らの手下は戦いをやめて財物を発(あば)き合ったため、何の役にも立たなくなったばかりか、胡才は討ち死にしてしまう。李楽も御車を追い、命からがら逃げ出した。

(03)大陽県(たいようけん)

皇后(伏氏〈ふくし〉)の兄の伏徳(ふくとく)が数十匹の絹を車から下ろす。これに献帝や皇后の体を包み、絶壁の上から縄で吊り下ろした。

井波『三国志演義(1)』(第13回)では、ここで行軍中尉(こうぐんちゅうい)の尚弘(しょうこう)を登場させていたが、吉川『三国志』では使われていない。

尚弘の官職は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・董卓伝〈とうたくでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く劉艾(りゅうがい)の『献帝紀(けんていぎ)』には、行軍校尉(こうぐんこうい)とあった。

こうして献帝の一行は断崖を下りて黄河(こうが)を渡り、ようやく大陽という部落までたどり着く。

夜が明けると、乱軍の中ではぐれた太尉(たいい)の楊彪(ようひょう)と太僕(たいぼく)の韓融(かんゆう)が若干の人数を連れて合流。献帝と皇后を素蓆(すむしろ)を敷いただけの牛車に乗せ、大陽を発つ。

道中で韓融が献帝に、自分は李傕や郭汜から信用されていると言い、ふたりに命がけで兵を収めるよう勧告してみると告げて引き返す。

(04)安邑県(あんゆうけん)

献帝は楊彪の勧めを容れ、ひとまず安邑県へ入る。だが、ここにも仮御所にふさわしいような家はなく、四方を荊棘(けいきょく。茨〈イバラ〉)に囲まれた茅屋(あばらや)をそれとせざるを得なかった。

緑林の親分である李楽は、献帝に従ってから征北将軍(せいほくしょうぐん)に任ぜられ増長が募る。彼は取り次ぎを待たず献帝に近づき、子分のために官職を強請(ゆす)ったりした。

井波『三国志演義(1)』(第13回)では、韓暹も征東将軍(せいとうしょうぐん)に任ぜられていた。

そうしていたころ、河東太守(かとうたいしゅ)の王邑(おうゆう)からいくらかの食べ物と衣服が届く。献帝と皇后は、その施しでようやく飢えと寒さから救われた。

井波『三国志演義(1)』(第13回)では、河内太守(かだいたいしゅ)の張楊(ちょうよう)が米と肉を献上し、河東太守の王邑が絹を献上してきたとある。

やがて李傕と郭汜を説得しに行った韓融が、大勢の宮人と味方の兵を連れ帰る。

韓融はふたりが戦いをやめた経緯を話す。勧告に応じたというより、この年(興平〈こうへい〉2〈195〉年)の大飢饉(だいききん)が戦争をやめさせたということだった。

茅屋の宮廷に人が増え、献帝は心強くはなったものの、差し当たっての朝臣の食べ物に窮する。献帝は洛陽(らくよう)への還幸を望んだが、いつも李楽ひとりが反対を唱えて評議をぶち壊す。

そこである夜、李楽が手下を連れて村へ酒や女を捜しに行った間に、かねて計り合わせていた朝臣たちがにわかに御車を引き出し、「洛陽へ還幸」と触れだした。

(05)箕関(きかん)

献帝一行は楊奉・楊彪・董承らに守られ数日の難路を急ぎ、箕関という関所にかかった。その夜の四更(午前2時前後)のころ、李楽が手勢をひきいて襲撃してくる。楊奉の命を受けた徐晃が、追ってきた李楽を見事に大刀で両断した。

管理人「かぶらがわ」より

逃げ続ける献帝一行。助っ人は何と山賊! その親分の李楽が征北将軍になったり、子分の中に御史(ぎょし)や校尉がぞろぞろいたり……。このときの朝廷はめちゃくちゃですよね。

それにしても、ここまで悲惨な行幸を体験した天子は漢代(かんだい)を通じてもいなかったのでは?

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『三国志』(全10巻)
吉川英治著 新潮社 新潮文庫
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。

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