吉川『三国志』の考察 第068話「空腹・満腹(くうふく・まんぷく)」

曹操(そうそう)は孫策(そんさく)に加え、呂布(りょふ)や劉備(りゅうび)の助力も得て寿春(じゅしゅん)を包囲したが、袁術(えんじゅつ)はいち早く城から逃げ出していた。

寿春の城下は洪水で大きな被害を受けており、とても兵糧を集められそうにない。そのうち滞陣が1か月近くになると陣中の兵糧も尽きかけてくる。そこで曹操は一計を案じ――。

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第068話の展開とポイント

(01)淮南(わいなん) 寿春

楊大将(ようたいしょう)が進言した、一時寿春を捨てて本城をほかへ遷(うつ)すという意見はひどく悲観的なものだったが、結局は袁術も許容する。

李豊(りほう)・楽就(がくしゅう)・陳紀(ちんき)・梁剛(りょうごう)の四将が10万の兵とともに残り、城を守ることになった。

楊大将がわかりにくい。『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫策伝)によると、袁術の長史を務めていたのは楊弘(ようこう)。ただ『三国志演義(1)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第15回)でも楊大将としているので、吉川『三国志』でもあえてそうしてあるのかもしれない。

ここで楽就の名が出てきたが、先の第66話(02)では「呂布は、馬首を高く立て楽就の駒を横へ泳がせ、画桿(がかん。柄の部分に彩画が施されている)の方天戟(ほうてんげき)を振りかぶったかと思うと、人馬もろとも、楽就は一抹の血煙となって後(しりえ)に仆(たお)れていた」という記述があった。

楽就はこのとき討たれたと思っていたが、早くも再登場してくるとは……。第66話では重傷を負ったものの、命は助かったということなのだろうか? なお『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第17回)では、楽就が呂布と戦って討たれた(もしくは重傷を負った)という描写は見えない。

そして袁術とその眷族(けんぞく)に従い、城を出ていく本軍には24万の将士が付随。

井波『三国志演義(2)』(第17回)では、袁術に付いて城を出る本軍の数には触れていなかった。

府庫宮倉の金銀珍宝は言うまでもなく、軍需物資や文書官冊(公文書の類い)などもみな昼夜車に積み、陸続と搬出。淮水(わいすい)の岸からどしどし船積みして運び去った。

こうして袁術らが淮水の彼方(かなた)へ渡り、遠く難を避けた直後、曹操ら寄せ手の30万が城下へ殺到する。寿春郊外の100里四方は今年の洪水の跡が生々しく、とても糧米を集められる状況ではなかった。

滞陣が1か月近くになると陣中の兵糧が枯渇してくる。

曹操は一気に攻め落とそうと焦っていたが、攻城作戦も水害の影響を受け、兵馬の動きは不活発になり、そのうえ城兵も頑強であるため容易にはかどらない。

そこで孫策に宛てて一書をしたため糧米の手配を乞う。すでに曹操との約束に従い進撃の途にあった孫策は、書簡を受け取ると本国へ糧米の輸送を命じた。

井波『三国志演義(2)』(第17回)では、曹操は孫策から10万斛(ごく)の糧米を借りたが、それでも(必要な量を)賄いきれなかったとある。

(02)寿春の城外 曹操の本営

日を経て兵糧総官(ひょうろうそうかん)の王垢(おうこう。王垕)と倉奉行(くらぶぎょう)の任峻(じんしゅん)が、もはや兵糧が数日も続かないと訴える。

井波『三国志演義(2)』(第17回)では任峻が管糧官(軍糧担当官)で、王垕は任峻の部下の倉庫係。

曹操は知恵を授けると言い、糧米を兵士に配る際の升を小さな升に代えるよう伝える。

ただちにふたりはその日の夕方から小升を用い始めた。ひとり5合ずつの割り当てが、1合5勺(しゃく)減りの小升になった。

曹操が下級兵士のつぶやきに耳を立ててみると、もちろん喧々囂々(けんけんごうごう)たる悪声が聞こえてくる。

すると曹操は王垢を呼び、30万の兵士たちの不満を取り鎮めるため、首を貸してほしいと言いだす。

王垢の泣訴を意に介さず、かねて言い含めてある武士に目くばせすると、たちまち首が斬り落とされた。曹操は首を陣中にさらし、王垢が小升を用いて私腹を肥やしていたと触れる。

これを信じた兵士たちは王垢を恨み、曹操に抱いていた不平を忘れてしまう。曹操はこの士気一変の転機をつかみ、即日大号令を発する。

それは、今夜から3日のうちに寿春を攻め落とすことを厳命するもので、怠る者はたちどころに死罪だという。

井波『三国志演義(2)』(第17回)では、曹操が3日以内に城を陥すよう厳命したのは即日ではなく翌日のこと。

(03)寿春

その夜、曹操は軍兵に率先して壕際(ほりぎわ)に立ち、必死に攻撃の指揮を執る。そして、卑怯(ひきょう)な振る舞いを見せたふたりの副将を斬り、自ら馬を下りて土を運び、草を投げ込み城壁へ肉薄すると、軍威は一時に奮い立った。

やがて一角を破り、寄せ手の軍馬が城内へ流れ込む。守将の李豊らはほとんど斬り殺されるか生け捕られた。袁術の建てた偽宮にもことごとく火をかけられ、城内は一面の大紅蓮(だいぐれん)と化す。

井波『三国志演義(2)』(第17回)では、李豊・陳紀・楽就・梁剛らはみな生け捕りにされ、曹操の命令により市場で斬刑に処せられた。

しかし曹操が船や筏(いかだ)を調え、袁術にとどめを与えよと準備している数日の間に、荊州(けいしゅう)の劉表(りゅうひょう)と張繡(ちょうしゅう)が結託して不穏な気勢を上げているとの急報が届く。

これを受け曹操は、征途を半ばにして許都(きょと)への引き揚げを決める。

引き揚げにあたって孫策に早馬を飛ばし、長江(ちょうこう)をまたぐように兵船を配置してもらい、上流の劉表を暗に威嚇(いかく)してほしいと頼んだ。

また呂布と劉備の友好関係を修復させ、特に劉備には予州(よしゅう。豫州)を去り、もとの小沛(しょうはい)に帰るよう命ずる。

別れ際、曹操は劉備に「きみを小沛に置くのは虎狩りの用意なのだ」と打ち明け、陳珪(ちんけい)と陳登(ちんとう)と計らい、抜からぬよう準備してほしいとささやく。

(04)許都

曹操が許都へ帰ってくると、段煨(だんわい)と伍習(ごしゅう。五習)というふたりの雑軍の将が、私兵をもって長安(ちょうあん)の李傕(りかく)と郭汜(かくし)を討ち殺したとして、その首を朝廷に献上する。

公卿(こうけい)百官は思わぬ吉事と喜び合い、献帝(けんてい)に奏上。段煨と伍習には官職が与えられ、そのまま長安の守りを命ぜられた。

井波『三国志演義(2)』(第17回)では段煨が盪寇将軍(とうこうしょうぐん)に、伍習が殄虜将軍(てんりょしょうぐん)に、それぞれ任ぜられていた。

管理人「かぶらがわ」より

呂布に討たれたのかと思っていた楽就が、寿春の守将のひとりに名を連ねていたのには驚きましたが……。これは先の第66話(02)の記述のほうに問題があるようです。

あとは小升の一件ですけど、王垢(王垕)の名は正史『三国志』には見えません。この元ネタは『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『曹瞞伝(そうまんでん)』のようです。

しかし小升使用の発案者は曹操ではありませんし、そもそも『曹瞞伝』自体が彼を貶(おと)すような記事ばかりですから――。小説としてはおもしろいと思いますけど、こういう味付けはどうなのでしょうね?

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